日系移民150年の歴史―あの戦争をアメリカで経験した私たち(中)

M.Hasegawa

北米報知記者インターン
長谷川 美波

 

※8月1日掲載の本記事(上)は以下のリンクからお読みいただけます※
日系移民150年の歴史―あの戦争をアメリカで経験した私たち(上)
 
 
 

第二次世界大戦と日系人の強制収容

 
 日系1世たちは徐々に農業や自営業で成功を収め、日系社会は大きな経済的繁栄を遂げた。1930年のシアトルには最大で8,500人の日系人が住んでおり、ロサンゼルスに次ぐ北米最大規模の日系社会が出来上がっていた。

 しかし、1929年の世界恐慌、1937年からの日中戦争と、次第に日米関係の雲行きが怪しくなってくる。そうなると、日系社会も厳しい立場に追い込まれた。アメリカでの日本人に対する差別感情はさらに悪化。日本に帰国する者も増えた。

日本人の立ち退きを命じる張り紙 ©Densho(1942年4月1日の日付がある)

ミニドカ・リロケーション・センター(収容所)の様子©Densho

 そして1941年、パール・ハーバー攻撃によって第二次世界大戦が勃発すると、アメリカに住む日系人は敵性外国人とみなされるようになった。第二次世界大戦中、12万人もの日系人が10カ所の強制収容所に送られた。アメリカで生まれ、アメリカ国籍を持つ日系2世もその対象となった。日系移民たちは、懸命に築き上げた財産と土地を全て手放し、いつ終わるかもわからない不安と恐怖を抱えて収容所へ向かわなければならなかった。
 
 
===========体験者の声(2)===========

ミニドカ収容所の暮らし 
アイリーン・マノさん

 「戦前は戦後より、ずっと強いアジア人に対する差別がありました。ヨーロッパ系移民とは見た目が違うというだけで、仕事はないし、土地も持てない。現在の日本町のような特定の区域に住まなければならず、夜8時以降は危なくて外を出歩けませんでした」

 強制収容命令が発令されると、アイリーン・マノさんは家族とアイダホ州にあるミニドカ収容所に送られた。収容所へ持っていくのを許されたのは、1人につき1つのスーツケースのみ。アイリーンさんは荷物を抱え、どこに行くのか、いつ帰って来られるのかも知らされないままに古い列車に乗り込み、不安と恐怖と共に到着まで2日と1晩を過ごした。

アイリーン・マノさん。両親は広島県出身でシアトルへ移住した日系移民1世。戦時中の収容所で家族と暮らした際の体験をつづった『Minidoka Memoirs』の著者でもある

 アメリカ政府は、この強制収容を「厳しい差別から日系人たちを保護するため」だとしていた。でも実際のところは、どうだったのだろう。「日系人たちが農業や自営業で繁栄し過ぎていたというのも、強制収容された理由のひとつだと思います。私はまだ若かったから、あまり影響は受けませんでした。でも両親のような日系1世にとっては、とても残酷なこと。移民してから必死に積み上げてきた土地や財産を全て取り上げられたわけですから。両親はとても怒っていました。だけど、文句を言わずに我慢していたのです。勤勉に働く、いつもの日本人のように」

 収容所で、アイリーンさんはどんな気持ちで過ごしていたのか。アイリーンさんは、日本人を両親に持つ日系2世だ。「私はアメリカで生まれ育ったアメリカ人。それなのに収容されたのは、変な感じがしました。収容所では、プライバシーなんてものは何もありません。それでも、徐々に現実を受け入れていました」

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Yes、YesかNo、Noか 日系人同士が対立

 
 1943年2月、収容所で暮らす日系人たちを深く分断する出来事が起きる。17歳以上の全ての日系人を対象として行われたアンケート調査(Application for leave clearance)だ。

 文字どおりの日本語訳では「出所許可申請書」となるが、その質問内容は物議を醸し、「忠誠登録書」とも呼ばれた。名前や出身地などの個人情報に加え、次の2つの質問が含まれていたからだ。

 第27項 米軍に入隊し、いかなる土地でも戦闘に参加することを誓うか。

 第28項 日本の天皇への忠誠を否定し、合衆国に対して無条件の忠誠を誓うか。
踏み絵のごとく、これらにYesかNoで回答を求められた。事前に詳しい説明を受けることもなかった。

 各収容所で多くの混乱を招き、家庭内でも1世とアメリカ国籍を持つ2世との間に軋轢が生じた。多くの日系2世の若者は日系人が置かれている状況を変え、未来の世代へ希望を残したいと、家族の反対とは裏腹にアメリカ軍への入隊を志願した。アイダホ州にあるミニドカ収容所からだけでも、300人以上の2世が志願したと言われている。そして、日系2世の若者のみで結成され、後に英雄と称えられることになる442部隊は、激戦地のヨーロッパへと送られた。

 
 
===========体験者の声(3)===========

442日系部隊からパラシュート部隊へ
トシ・トクナガさん

 第二次世界大戦中、ミニドカ収容所で生活後、アメリカ軍に入隊してヨーロッパ戦線へ向かったトシ・トクナガさん。両親は愛媛県からシアトルへ渡った日系移民一世で、第二次世界大戦が始まると他の日系人同じく、家族でミニドカ収容所へ送られた。現在93歳のトシさんが17歳の頃の話だ。

日系2世部隊のキャップ帽(写真:Nick Turner)

 収容所内の高校を卒業すると、叔父に呼ばれて、日系2世アメリカ人青年で構成された442部隊へ選択の余地もなく入隊した。「冒険に出るような気持ちだったけれど、次に何をするのか全く想像がつかなった」

 トシさんはまずミシシッピにある基地に送られ、基礎訓練を受けた。しかし、訓練を全て終えると、パラシュート専門の507部隊へ加わるよう通告を受けた。その後、ジョージア州にある基地でパラシュート専門の訓練を受け、戦艦クイーン・エリザべスでヨーロッパと向かった。スコットランドに上陸後、フランスへと送られ、その後、パラシュートでドイツに飛び降り、ライン川での戦闘に参戦した。

 戦後、退役軍人の式典に参加した。ほとんどの退役軍人が白人だった。トシさんが配属されたパラシュート専門の507部隊は、もともと白人中心に構成されていたため、日系人のトシさんはマイノリティーだった。式典でトシさんが収容所から徴兵されたことが伝えられると、全員がスタンディング・オベーションでトシさんを称えたという。

日系2世部隊として激戦地に送られたほとんどの青年たちは生きて帰って来なかった。「70年も前のことだから、今となっては生き残ったなんてことを気にしていないよ」。トシさんはそう言って少し笑った。本当に70年も前にアメリカ軍としてヨーロッパの激戦地で戦った人なのだろうか。その笑顔からはとても想像がつかない。

 日系2世部隊として激戦地に送られたほとんどの青年たちは生きて帰って来なかった。「70年も前のことだから、今となっては生き残ったなんてことを気にしていないよ」。トシさんはそう言って少し笑った。本当に70年も前にアメリカ軍としてヨーロッパの激戦地で戦った人なのだろうか。その笑顔からはとても想像がつかない。

※次回更新は8月15日を予定しております※

※8月1日掲載の本記事(上)は以下のリンクからお読みいただけます※
日系移民150年の歴史―あの戦争をアメリカで経験した私たち(上)