87歳の「怪優」、気迫の『 土佐源氏 』

E.Nakamura

E.Nakamura

仲村映美
響和堂代表・イベントプロデューサー)

 それは、ストリップ小屋の幕間狂言から始まった。

 1967年、新宿二丁目にオープンした「モダンアート」なる小劇場は、ヌードショーに実験劇を組み合わせるという新機軸でスタートした。演劇だけでは集客できないからストリップも付けようというのではなく、ストリップだけではダメだから前衛劇・軽演劇を加えようという話。なんともすごい時代だ。

 当時、演劇集団「変身」で小劇場運動を牽引していた俳優・坂本長利に声が掛かった。場所柄、色事の話がよいだろうと題材を探す中で、坂本の脳裏に浮かんだのが『土佐源氏』だった。

 

ストリップの合間に「馬喰渡世」

 

俳優・坂本長利「土佐源氏」 1/3

俳優・坂本長利「土佐源氏」

 

 極道の末に盲目の乞食に身を落とした元馬喰の一代記、その色懺悔ともいうべき物語。これは戯曲ではない。民俗学者・宮本常一さんが1941年に高知県の山奥にある檮原(ゆすはら)という村を訪れ、橋の下の小屋に住む盲目の老人から実際に聞き書きした話をまとめたものである。

 人を騙して儲ける馬喰渡世の壮絶な生き様の中で、忘れることのできない二人の女性との逢瀬を軸に、赤裸々な告白がふれる男女の機微。坂本が「民話」という小冊子に掲載されていたこれを読んだのは20代半ばのことだった。言葉にならない感動を受けたものの、すぐに芝居にしようと思ったわけではない。しかし、心の奥底で大切な何かとして生き続け、年月を経て「一人で演じてみようか」と、ふと思い立った時に、このモダンアートでの実験劇の話が来た。

 かくして『土佐源氏』を、ストリップと軽演劇の間の30分の幕間狂言に仕立てることになる。今から49年前、38歳の時のことである。原作から特に艶話の部分をクローズアップし、文章表現は変えずに演技プランを構築しながら、舞台用の台本と演出を自ら練っていった。

 本番が始まると、楽屋は仕切りもカーテンもないところで、踊り子さんたちがパッパパッパと脱いだり、着けたり。坂本が壁に張り付けられた鏡に向かって舞台化粧をしていると、丁度踊り子さんのへそ下から太ももあたりが映って、目のやり場に困ったそうである。

 

最初のファンは踊り子たち

 

俳優・坂本長利「土佐源氏」2/3

俳優・坂本長利「土佐源氏」

 

 “実験小劇場”と銘打ってはいても、来場客のほとんどがストリップ目当てだ。ショーが終わって坂本が登場すると同時に、みな新聞を広げて読み始め、芝居を観る気配などない。そんな中で、入れ替えなしの昼夜3〜4回のステージ。「早くやめちまいたい」と思いながらも、とにかく勉強のつもりでやるしかないと舞台に立っていたら、最初にこの芝居に心動かされたのは、踊り子さんだった。

 自分の出番が終わると客席に降りていって、お客さんの膝の上にポッポッとお尻をつけて、首の後ろに手を回し「ネェ、さっきのお芝居どうだった?『土佐源氏』どうだった?」と聞いて回ってくれたそうである。そして、楽屋に戻るとパッパとパンツを替えながら「坂本さん、今ね、客がこんなこと言ってたわよ」と感想を聞かせてくれる。これが随分励みになったそうだ。

 半月もすると、ストリップよりも『土佐源氏』を観に来る客がどんどん増えて来た。その中に、当時朝日新聞学芸部の記者で、演劇評論家の扇田昭彦さんの姿もあった。扇田さんはのちにこう書き記している。

 「むろんそのときの私は、ヌードを見るためにのみその小屋にはいったのだが、ショーの幕間狂言的な形でたまたま上演されていたのが『土佐源氏』だった。しかも、これが氏によるこの作品の初演だったというのだから、私は実にしあわせな瞬間に立ち会えたといえるだろう。初演の印象は、思いがけなかっただけに、すこぶる強烈だった。小さなヒナ壇のような台の上に端座し、独演する氏の全身からは、一種凄艶ともいうべき生な気迫と色気が発散しており、それはまるでギラつくナイフのような戦慄感に私たちを誘ったのだった。当時私は何回もこの小屋に足を運んだが、『土佐源氏』以外の演目の内容は、もうあらかた忘れてしまった」

 

国内・海外へ出前公演

 

俳優・坂本長利「土佐源氏」3/3

俳優・坂本長利「土佐源氏」

 

 モダンアートでの60回にわたる上演が終わって、『土佐源氏』を約70分の独演劇に仕立て直す。モダンアートの舞台が忘れられずもう一度観たいという客や、噂を聞きつけて是非観たいという人が増え、あちこちから呼ばれるようになった。これが”出前芝居”というスタイルの始まりになった。全国津々浦々、劇場のみならず、神社や寺、蔵に工場、個人宅、学校の教室や喫茶店、浜辺、極寒の雪の中、請われればどこへでも出掛けて上演した。

 更に“出前”は、ポーランド、スウェーデン、ドイツ、オランダ、ペルー、ブラジル、デンマーク、韓国など海外にも及んだ。

 「高鳴る太鼓の音の中から、観客は坂本長利に出会う。情熱といたわりと狂気のなかですごした盲目の老乞食『土佐源氏』の一生が、1時間にわたるモノローグによって演じられる。この一人芝居は言葉の垣根を越えて訴えるものを持ち、強い感動的な体験を観客に与えた。日本語で演じられたにもかかわらず、舞台は深い共感を呼び、まるで魔法のように舞台上に絵画的に表現され、日本での出来事がまるで自分たちのことのように感じられた。日本語のリズムを聞くこともまた、非常に素晴らしい体験であった。日本語は世界の中でも非常にニュアンスに富んだもので、シェイクスピアの使った英語よりも素晴らしいものであった。」(スウェーデン新聞劇評)

 スコットランドのエディンバラ国際芸術祭で絶賛された翌年1986年には、紀伊國屋演劇賞特別賞を受賞した。

 坂本長利は1929年、島根県出雲市に生まれる。お神楽とサーカスに心を躍らせ、幼い頃から役者になりたいと思っていた。とはいえ、終戦の年は16歳、東京に出て役者修業を始めるなど許される状況ではない。沸々と湧き上がる想いを胸に数年経て、ようやく上京叶い、21歳の時に山本安英さん率いる劇団「ぶどうの会」に入会する。劇団解散後、1965年に前述の演劇集団「変身」を結成。その2年後から『土佐源氏』の上演を始めることになる。

 1971年の「変身」解散後はフリーとなって、数多くの舞台、映画、テレビ、ラジオ等に出演。特に70年代は日活ロマンポルノ作品に数多く出演し、「怪優」として注目された。

 80年代以降は帝国劇場・日生劇場・新橋演舞場をはじめとする大劇場での商業演劇公演を重ね、名脇役として演出家や作家からも絶大な信頼と評価を得ている。2000年代はテレビドラマ『Dr.コトー診療所』シリーズの村長役レギュラー出演で、お茶の間に登場する顔にもなった。

 

半世紀で1000回を超えた公演

 

 こうした合間を縫っての『土佐源氏』の“出前芝居”は、70年代には340回、80年代には535回と、多い年には年間100回を超える驚異的な上演を重ね、1996年に1,000回を突破した。2011年に胃ガンの手術をしたが、退院の3ヶ月後には新宿で5日間連続公演を敢行。現在も「呼ばれればどこへでも」のスタイルを続けている。
 今年11月に座・高円寺(東京都杉並区)で予定されている公演は、数えで88歳の米寿記念公演として1,180回目となる。おそらく、一人芝居を演ずる現役最高齢の役者だろう。

 1979年、50歳の時に出版された著書「坂本長利『土佐源氏』の世界」の中にこういう一文がある。
 「最近よく、私が70歳、80歳になったときの『土佐源氏』の舞台をみたいものだと言われる。大変な労働なので、はたしてそこまで続けられるかどうか…。もちろんやれるところまで、やり通すつもりであるが、奇蹟でもおきて、人間的にも演技的にも大きく成長できれば可能かもしれない。」

 それから30年。

 「30歳代には30代の、50歳代には50代の演技があり、80歳になってみれば80歳の演技があるものだ、と思いました。先日上演したときのこと、演技している自分の体に変化がありました。余計な力みがなくなっていたのです。飄々として、かろやかな老人が観客を前に自然体でうごめいていました。年をとってみなければ、わからないことがあるもんだな、と思いました。テクニックやひらめきだけでなく、そして1000回演じてもつかめずにいたことが、体で自覚できたことは、役者としてうれしく楽しいことでした」

 こうして50年近く『土佐源氏』を演じ続けた根底には、宮本常一さんのこの言葉がいつも心にあると言う。

 「どのようにささやかな人生でも、それぞれがみずからの命を精いっぱいに生きるものはやはりすばらしいことである。生きるということは何かいろいろの意味があるのだろうが、一人一人にとってはその可能性の限界をためしてみるような生き方をすることではないかと思う。」

 私が初めて『土佐源氏』を観たのは、1985年下北沢ロングラン・シアター(現在の下北沢OFF OFFシアター)だった。エロティックな表現の多い色懺悔にも関わらず、下卑た印象が全くない。見終わった後のこのさわやかさはなんだったろう。光源氏のような高貴な生まれのプレイボーイではなく、社会の底辺に生き、自ら「人間のクズじゃ」というような小汚い爺さんのはずが、愛おしい女への無償の愛と思いやりに満ちた男として、実に優しく美しい姿がそこにあった。そして、しっとりとした色気をたたえ、切なく震える可愛い女の姿があった。

 

「ああ、私の仕事場はここだ」

 

 当時、俳優養成所を卒業したばかりで、舞台女優を目指していた私は、その圧倒的な存在感と演技力を前に、完膚なきまでに打ちのめされた気持ちになりつつ、実に清々しい思いで「役者になるのはやめよう」と思った。まさしく、ホンモノの役者の覚悟を見せつけられたからである。

 それから20数年の会社勤めを経て、フリーのイベントプロデューサーとして活動するようになった。坂本さんとは親交が続いていたが、高齢になるに従って公演回数も少なくなった。『土佐源氏』が忘れられてしまうのではと憂慮していたこともあり、2010年に坂本長利80歳記念公演を主催した。これを機会に、俳優・坂本長利のプロモーション・マネージメントの窓口として、ボランティアで支援させてもらうことにした。

 今回11月15日(火)に米寿記念公演『土佐源氏』を主催し、来年には『土佐源氏』上演50周年記念公演も企画している。一人でも多くの方に、坂本長利の舞台を体感していただきたいと願ってやまない。

 「虚構という魔法の箱のなかで、小さな小さなことかもしれないけれど、なにかのキッカケを人さまの胸のなかに、ちょこんと投げかけてあげることができれば、それでよい。そんなとき自分の血管がジーンとふくらんで、ああ私の仕事場はここだと心からおもえるのだ。あとは消えてゆくのみ。」(坂本長利)