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「国務省には共産主義者がうようよしている」

 独立メディア塾 編集部

 アメリカ合衆国の上院議員、ジョセフ・マッカーシー(1908年11月14日~1957年5月2日)が1950年2月9日、米国ウ ェストバージニア州のウィーリングで行った演説。「自分も国務長官もその名前(共産主義者)を知っている」と言って「マッカーシズム」と呼ばれる時代の口火を切った。歴史に残る「赤狩り」のスタートになった。(R.Hロービア著・宮地健次郎訳「マッカーシズム」から)

 ジョセフ・マッカーシーは1946年、ウィスコンシン州から選出された共和党の上院議員。1950年代、政府内部にいる共産主義者を追放するという「赤狩り」で名を上げた。のちに大統領になったリチャード・ニクソン、ロナルド・レーガンや映画監督のエリア・カザンらが赤狩りに協力した。作家、映画監督・俳優などをやり玉に挙げ、「ハリウッド10」と呼ばれる10人の監督、脚本家が米国の映画界から追放された。再入国を認められなかったチャーリー・チャップリンはスイスに永住した。

 酒浸りの日々、マローが初めて批判

 やがてマッカーシズムへの批判が高まり、上院は1954年、マッカーシーを「上院の品位を損ね、それへの批判を生む行動をした」として譴責決議を採択した。
マッカーシーは譴責が決まったあと、現役の議員にもかかわらず、自宅のテレビでメロドラマを見ながら酒におぼれた。精神錯乱の発作をおこしたこともあり、「どこへいっても、みんなが俺を軽蔑の目で見るんだ。もう耐えられない」と友人に告白している。
(マルコム・フォーブス、ジェフ・ブロック著「有名人のご臨終さまざま」から)
 1957年5月2日、アルコールによる肝機能不全で48歳で死亡した。米国は国会議事堂に半旗を掲げたものの、追悼式は簡素だった。
 「マッカーシズム」の著者R・H.ローピアは米国社会を反共ヒステリーで混乱させた政治家の死を、メディアがどのように報道したか、メディアを次のように批判し、皮肉った。
 「(マッカーシーの)死亡記事担当記者は苦労せねばならなかった。そして大部分のものは安易な逃げ道を選んだ。彼らは書いた。マッカーシーは『物議をかもす人物』だったが、自分の行動には『信念』をもっていたと」。
 ローピアは「最も真実味のある追悼の言葉」として、一人の婦人が涙ながらに語った言葉を引用した。「ニュースというニュースを聞いたけど、みんな間違っている。あの人に『誠実さがあった』『信念があった』なんてお笑い草よ」。
同時にロービアは次のような「注」を付け、マッカーシズム批判の口火を切った一人のジャーナリストがいたことを紹介した。
 「一人の放送人(七時のニュースの男)が彼(マッカーシー)の誠実さについて語らなかった。それはエドワード・R・マローであり、(略)マローはこう回想している。『私は放送に入る直前にこの(死亡の)ニュースを知り、これはいささかも間違ったこと――不当な賞賛とか下劣な悪口とかーーを言ってはならぬ時だと自覚した。私は何事を報道するにもこの時ほど客観的だったことはないと思っている。それでも翌朝私は何百人もの人間から、冷淡だ、嬉しがっている、詐欺的な同情を示したとして非難された』」
 マロー( 1908年4月25日~1965年4月27日)は米国CBSテレビの記者。放送ジャーナリズムの確立者として評価が高い。マスコミがマッカーシズム批判を避けているときに、1954年3月9日に放映された『See it Now』の30分間の特別番組『ジョセフ・マッカーシー上院議員についてのレポート』で、マッカーシーが「共産主義の脅威と戦い自由を守る」と言って個人攻撃を行うやり方を批判した。アメリカの大手マスコミによる初めての「赤狩り」批判及びマッカーシー批判となった。

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