記事応募にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

テレビ創世期の思い出は、汗と涙がいっぱい 4/7

  松尾 英里子 / 白鳥 美子

日本テレビのアナウンサーになったのは1960年(昭和35年)。日本初の民間放送として日本テレビが開局し、まだ7年目のことだった。民間放送が経営的に成り立つかどうかもわからない時代。ちょうど入社した年の秋に、カラー放送が始まった。
四ツ谷駅を降りると、二階建ての社屋が見えた。光の三原色である赤・青・緑の色を模した壁もよく見えた。「そのくらい、周りに高い建物がなんにもなかった」
録画技術がないため、ニュースもドラマもスポーツも、あらゆる番組が生放送だった。放送時間帯も朝、昼、夜と、1日3回それぞれ数時間。合間にはテレビは映らなくなり、社員は休憩時間になる。とはいえ、どこかに行くといっても、会社の前には小さな喫茶店しかない。いつも喫茶店に行ったり、社員食堂に行ったりした。中には麻雀に行く先輩もいた。
 
当時、朝のニュースとステブレ(Station Break。番組と番組の間のコマーシャル)を担当するアナウンサーは、2人1組のペアになって、前日から四ツ谷駅前の旅館に泊まっていた。ベテランがニュースを読み、若手がステブレを読む。その放送に間に合うように、若手が先輩を起こし、出社するのが常だった。
ある朝、宿に電話がかかってきた。時計を見たら5時50分。番組の開始の10分前だった。慌てて先輩を起こし、謝った。「申し訳ありません!僕、二度寝しちゃったんです!」先輩は血相を変えて、走りながら上着を着てネクタイをしめ、会社に向かっていった。「僕は呆然として、後ろ姿を見ているわけだよ」。残念ながら、自分はもう間に合わない。仕方ないのでテレビをつけてみたら、先ほどまでここにいた先輩アナウンサーが、肩で息をしながらニュースを読んでいた。 「今でもとにかく見る夢って言ったらね、番組遅れてどうしよう、というね、そんな夢ばっかりです」
  ある朝、寝坊した同僚に代わり、突然任されたスポーツニュースは、全く知識のないホッケーの試合。原稿もない、選手の名前はおろか、対戦しているチーム名すらわからない中、ひたすら「シュート!シュート!」と言い続けたこともあった。
 
機械室にネズミが入り、機械が止まって放送ができなかったこともあった。
 
今のようにVTRもないので、生放送もいつ終わるのか、正確な時間が事前に読めない。スタジオには、空白の時間が生まれた時に映すための水槽が、いつも備えられていた。
 
「とにかくみんな生放送だから、トラブルというか、笑い話が、いっぱいあるんだよ」 テレビ創世期は汗と笑いが溢れていた。


久能さん取材アルバムより

コメント投稿にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

こちらのコメントを通報しますか?

通報しました