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不運が付きまとった二度のオリンピック 6/9

  松尾 英里子 / 白鳥 美子

1980年のモスクワオリンピック、初めてマラソン日本代表に選ばれた瀬古さんは最有力の優勝候補と目されていたが、開会式の2か月前にボイコットが決った。
「人生、二度目の挫折でした」
だが、中村監督はすぐに3つの目標を打ち立てた。「オリンピックだけがマラソンじゃない。このあと、10,000メートルで日本記録を出して、福岡国際マラソンで優勝して、ボストンマラソンで優勝しよう」
これが達成できれば、瀬古が世界一だと世界に証明できる。新たな目標に向かうことで、オリンピックに出られなくなったショックに耐えた瀬古さんは、この3つを全部、見事達成した。
そして迎えた、1984年ロサンゼルスオリンピック。再び代表に選ばれた瀬古さんは「今度こそ優勝を」というプレッシャーに苦しむことになった。


合宿練習風景(1984)


「毎日、誰かに『頑張れ』って言われる。60キロ、70キロ走って限界まで頑張っているのに、『頑張れ』って言われる。辛かった」 これだけ応援されているのだから、期待に応えたい。だから、“頑張って”練習をする。練習が足りないのは不安だから、もっと“頑張って”走る。どんどんエスカレートしていったせいで、体に負荷がかかり過ぎた。
「本番の二週間前に血尿が出て、ドクターストップがかかりました」
他の選手と共に先にアメリカ入りしていた中村監督には電話で伝えたが、優勝を期待するマスコミや周囲には言えなかった。
「だけど、お袋には言わなきゃいけない」
泣きながら「走れないよ」と伝える瀬古さんに、母も泣きながら、こう言ったという。
「利彦、死んじゃだめだよ」
結局、レースに出ることはできたが、14位という結果に終わった。


ご両親との手紙のやり取り


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