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小林 恭子

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2020年11月号

投獄も覚悟のサリドマイド報道

在英ジャーナリスト 小林 恭子

 英国の新聞界で「伝説」と呼ばれた日曜紙サンデー・タイムズの元編集長(1967-81年)ハロルド・エバンズ氏が、今年9月23日、移住先の米国で心不全で亡くなった。享年92歳。
 「弱きを助け強きを挫く」ジャーナリズムを実践したエバンズ氏は、地方紙「ノーザン・エコー」の編集長時代(1961-66年)からの一連の報道によって、死刑制度の廃止や子宮がん検診(無料)の義務化など様々な社会変革を引き起こした。英国に住む多くの人が今でもその恩恵を受けている。
 エバンズ氏による調査報道の中でもっともよく知られているのが、サリドマイド薬害事件だ。報道の道のりを記してみたい。

  伝説の編集長が残したもの

 サリドマイド剤は、欧州では1950年代末から61年頃まで販売された。当初は睡眠薬として紹介され、副作用が少なく安全な薬と宣伝されたことから、世界約50カ国の妊婦がつわりや不妊症の解消のために服用した。しかし、数か月服用した妊婦から重症の四肢欠損や耳の障害などを生じた子供が生まれるようになった。
 英国の慈善団体でサリドマイド児を支援する「サリドマイド・トラスト」によると、被害者総数は世界中で推定約1万人。英国内でトラストの支援を受けるサリドマイド児は、現在461人。「児」と言っても、すでに60歳前後に達している。
 英国では1958年から1961年まで、製薬会社ディステラーズ社がドイツの製薬会社グリュネンタールから認可を受けて製造し、安全な睡眠薬「ディスタバル」として販売した。
 障害を持って生まれてきた赤ん坊の姿に驚いた助産師や産婦人科医は,ぎりぎりまで母親に赤ん坊を見せないようにしたという(エバンズ氏の自伝「マイ・ペーパーチェース」より)。罪悪感に書かれた母親たちは自分を責めた。子供に対する周囲の反応を恐れ、家にこもる母親もいた。夫が「あんな怪物を家に連れてく来るなら、俺は家を出ていくぞ」と宣言し、離婚する夫婦もあったという。
 サリドマイド剤が原因と気づいた家族らは製薬会社を怠慢で訴えた。民事訴訟が始まったことで、報道機関は厳しい報道規制に直面することになった。司法審理に影響を与える行動(報道も含む)は法廷侮辱罪によって禁じられている。有罪となれば、最悪の場合、投獄される危険もあった。
 サリドマイド事件に関心を持っていたエバンズ氏がサンデー・タイムズの編集長となった1967年、被害家族は製薬会社から補償金の支払いを受けていない状態だった。
 「一体なぜこんなことが起きたのか?」エバンズ氏はこれを解き明かしたかったが、家族らは弁護士から「マスコミには近づくな」と言われており、ディステラーズ社も取材に応じなかった。

エバンズ氏の自伝「マイ・ペーパーチェース」(筆者撮影)

  情報提供料を払うか、否か

 しかし、情報を持つ一人の関係者がサンデー・タイムズにアプローチしてきた。民事訴訟の家族側の医療コンサルタントだった。サリドマイド剤を服用していた妻を持つ男性が、裁判の過程で明らかになった製薬会社の1万点にも上る内部資料の提供を申し出たのである。ただし、提供の代償として、多発性神経炎にかかった妻の治療費として8000ポンド(当時、勤労者の平均年収の約10倍に相当した)の支払いを求めた。
 情報をお金で買って報道するのは「小切手ジャーナリズム」と呼ばれ、エバンズ氏が毛嫌いする行為だった。しかし、背に腹は代えられない。エバンズ氏は支払いに同意する。
 スウェーデンの被害者家族を代表する弁護士も連絡を付けてきた。持っていたのは英ディステラーズ社が薬の製造認可を受けた独グリュネンタール社の内部資料で、この弁護士も支払いを要求し、エバンズ氏はこれにも同意することになった。
 ドイツ語の書類によると、同社がサリドマイド薬を表向きには「安全」としていながらも妊婦の胎盤を通って胎児に影響を与える可能性をテストしていなかった。安全性の証明として挙げられていた米博士による記事は米国でサリドマイドを販売した製薬会社の社員が書いたものだった。
 1968年、ディスラーズ社は家族側が要求した賠償金の40%の支払いを提示した。合意がまとまらないまま、1969年、2人の被害者が提示された金額を承諾した。ほかのメディアがこれを一定の成果として報じる一方で、サンデー・タイムズは、社説の中で金額が不十分であることを強く批判した。
 その後、新たに266の被害者家族が製薬会社に補償を求めると、ディスラーズ社は先に応じた支払金額の半額を提示した。しかも、すべての家族がこれに合意するのでなければ、補償はないという条件付きだった。
 怒りを感じた家族の1人が大衆紙「デイリー・メール」に思いを吐露。しかし、記事掲載後、法務長官が「法廷侮辱罪にあたる可能性がある」と編集長に指摘すると、デイリー・メールはその後に予定していた連載記事の掲載を停止した。

  すくむ報道機関、さあ連載開始

 英国の報道機関が総すくみとなる中、日曜紙サンデー・タイムズはこれまでに入手した極秘書類から得られた情報を基に、1972年9月24日付から「私たちの良心の子供たち」というロゴ付きの連載記事の掲載を開始した(1973年1月まで)。他紙に先を越されたくないという思いもあって、エバンズ氏は「投獄されてもかまわない。それでもやる価値はある」と宣言して、掲載に踏み切った。
 掲載前に、エバンズ氏は社内の関係者に電話して掲載の意図を伝えた。広告担当者はディステラーズ社がサンデー・タイムズの最大の広告主であることを指摘し、「それでも、君は掲載を止めないだろうね。止めるべきじゃない」とエバンズ氏に告げた。
 報道は「家族は道徳的見地から、より大きな補償額を得る権利がある」という文脈で、ディステラーズ社に過失責任があるとは書かなかった。そうすれば、侮辱罪適用と言われても反論できる、と考えたのである。
 ディステラーズ社の内部資料を基にした、被害の原因を究明する原稿も掲載予定だったが、法務長官からは法廷侮辱罪にあたる可能性があるという理由で報道差止め令が出た。サンデー・タイムズ側はこれを控訴。その繰り返しの後で、英国内の最高裁判所にあたる貴族院の判断でもサンデー・タイムズは敗訴した。
 欧州人権委員会に訴えるところまでいったが、経緯を詳細に記した原稿の掲載は許可されなかった。予定原稿をサンデー・タイムズ側から提供されていたディステラーズ社は資料が流出したこと知り、機密保持のための永久的な報道差止め令を要求し、法務長官がこれを認めていた。この差止め令がまだ有効だったのである。
 しかし、その判決文には附則として予定原稿がそのまま添付されていた。一字一句も変えなければ、判決文の一部として掲載して良いことになり、1977年7月、サンデー・タイムズは全文を紙面に出した。
 サンデー・タイムズの報道によって、ディステラーズ社は同社の評判や株価がこれ以上下落することを懸念し、1973年1月、2700万ポンド(現在の為替計算では約36億円)の補償額の支払いで家族と合意した。英政府も500万ポンドを拠出し、支援団体「サリドマイド・トラスト」が設置されることになった。

  初動が遅かった、と調査チーム

 サリドマイド報道にかかわったポール・ナイトリー記者はサンデー・タイムズの初動が遅かったことを指摘している(著作「新聞記者の成長」)。
 1960年代初頭にはその被害が知られていたにもかかわらず、サンデー・タイムズが報じたのは1968年。連載の開始は1972年だった。
 エバンズ自身も、法廷侮辱罪違反を恐れて初動が遅くなったことで、「サリドマイド事件は・・・ジャーナリズムの欠点をあらわにした」とナイトリー氏の本の中で語っている。

小林 恭子

在英ジャーナリスト

1981年、成城大学文芸学部芸術学科卒業(映画専攻)。
外資系金融機関勤務後、「デイリー・ヨミウリ」(現「ジャパン・ニューズ」)記者・編集者を経て、2002年に渡英。
英国や欧州のメディア事情や政治、経済、社会現象を複数の媒体に寄稿。
「新聞研究」(日本新聞協会)、「GALAC」(放送批評懇談会)、「メディア展望』(新聞通信調査会)などにメディア評を連載。
著書に『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス(新書)』(共著、洋泉社)、『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『チャーチルファクター』(共訳、プレジデント社)、『英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱』(中公新書ラクレ)

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