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思い出の仕舞い方

テレビ屋 関口 宏

 「これ、この間の・・・・」と言われてマネージャーから手渡された1枚の写真。「あぁ、ありがとう」と言って受け取り、その写真に見入ったものの、どこか不思議なものを感じました。その写真は、久しぶりに事務所に現れた知人とのマスク姿のツーショット。それなりに今が表現されていて面白いと思ったのですが、不思議な感覚はその写真の映像ではなく、プリントされた写真というものを、手にすること自身だったのです。

 思えば知らず識らずのうちに、プリントされた写真を手にすることがなくなっていました。帰宅してアルバムを開いてみれば、2018年6月以降、新しい写真は追加されていません。つまり写真なるものは、スマホで用が足りる時代になっていて、スマホからスマホへの転送によって、写真をあげたりもらったりが済まされているのでしょう。

 しかし私自身はスマホ写真に抵抗するアナログ派というか、ただのジジイなのかもしれませんが、スマホの写真はどうも見た気がしない、じっくり見ようと思えない人間なのです。


 しかも今回のように、プリントされた写真をもらうことも少なくなった最近では、アルバムを開くことさえなくなりました。
 アルバムを開く一番の機会は、新しい写真を追加する時。スーッと透明のフィルムを剥がし、収まりを確認しながらその写真を台紙に乗せ、フィルムをソーッと被せて一息ついて、そしてそのアルバムをめくりながら思い出を辿るのです。そんな作業を何年、何十年続けて来た結果、数十巻にもなる思い出記録ができたのですが、最近、それすら見なくなってしまったことに気づき、ちょっぴり罪悪感のようなものを感じてしまいました。

 確かにスマホは便利です。若い人に「ほら、あの時の・・・・」と言えば即座に「はい!」と言ってスマホ写真を出してくれます。しかし先ほど言いましたように、それは私には何かを確認する程度で、じっくり見ようとは思えないものなのです。スマホが手の中にあれば画面が揺れて見にくいし、テーブルに乗せてもプリントされた写真とはどこか違っていて、どうにも受け付けないのです。

 「君たちはアルバムなんて作らないの?」と若い人たちに聞いてみれば、「あんな重たい面倒なものは必要ないです」とのこと。なんだかがっかりというか、取り残されてしまった感じになりました。

 東日本大震災の時、がれきの中から出て来た泥だらけのアルバムを、食い入るように見入っていたお爺さんの姿が目に浮かびました。あの方も、家族の思い出は、アルバムの中に大切に仕舞われていたのでしょう。


 そう言えば手紙もそうかと気がつきました。そういう私自身、数年前、盆暮れ正月のご挨拶をご辞退して以来、めっきり筆不精になってしまいました。机の片隅には、頂いた大切なお便りを仕舞う箱が置かれているのですが、そこも寂しげです。またその横に置かれた便箋、インク、万年筆も手持ち無沙汰にしています。

 手紙は「メール」で事足りる時代になってしまったのでしょう。私も多少のことはできるようになって、今ではもっぱら「メール」に頼っています。どこかでは、手紙の良さ、貴重さは「メール」では表せないと判りつつも・・・・。

 時代が変わることは仕方ありません。でもこれからの時代、大切な思い出はどのように仕舞われて行くのでしょうか。

 テレビ屋  関口 宏

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