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寒さを凌ぐ

テレビ屋 関口 宏

 さて2月です。私の感覚では、幼い頃より1年で一番寒い月と思ってきました。逆に一番暑いのが8月。1日の日照時間が一番長い6月の「夏至」から2ヶ月後が暑く、12月の一番短い「冬至」から2ヶ月後が寒い。その「ずれ」は、地球の地軸の「傾き」が原因と教わりました。最近地球の「温暖化」が大きな問題になっていますが、この寒い2月、暑い8月は、まだ狂ってはいないと思っていますが、安心していてはいけないのかもしれません。

 そこで、幼い頃の「冬」を思い出してみました。
 私は戦中の昭和18年生まれ。物心ついた2〜3歳頃は、終戦直後の世田谷の外れの、廃墟だらけの中におりました。かろうじて空襲を免れた我がボロ家の唯一の暖房器具は、戦前から使われていた炭火を使った行火(アンカ)の炬燵(コタツ)。そこに皆んなで足を突っ込んで暖をとり、夜はとにかく早く布団に潜り込んで、冷たい粗末な布団が、体温で暖まるのを待ちました。かじかんだ足を温めるには、布団の中で寝ながら胡座(アグラ)をかく形になり、太腿に冷たい足を挟み込んだりしましたが、なかなか布団は暖まらず、よく寝小便をしてしまったのも、寒い冬の出来事でした。

 やがてどこからか親父が、「湯たんぽ」なるものを手に入れてきてくれて、夜の布団の中の世界が変わりました。ブリキで作られた「湯たんぽ」は、楕円形のやや平べったい形の容器で、端にねじ式の蓋があって、そこからお湯を注ぎ込みます。そしてしっかり蓋をして、厚手の古着でくるんで布団の中に入れる。それだけのことで、どれだけ冬の夜が変わったことか。時には、「湯たんぽ」の温かさが広がる布団の中に入ることが楽しみにもなりました。
 しかもその「湯たんぽ」の湯が、翌朝にはまだ温もりを残しており、顔を洗ったりするのに役立ちました。


そんな話をあちこちでしたからでしょうか、最近、モダンな「湯たんぽ」をプレゼントしてくれる人が現れました。ブリキ製ではなく、しなやかなゴム性のしゃれた逸品に、「湯たんぽ」がまだある嬉しさと、時代の変化を感じる複雑な想いの中で、楽しく「湯たんぽ」とのひと夜を過ごしました。

 話はまた終戦直後に戻ります。寒さを凌ぐ一つの手段が衣服なのですが、まだ何もない貧しさの中、粗末なものを重ねて着込んで、動きが取りにくい不自由な着膨れ状態になることが当たり前でした。それが時代の進歩とともに、今や薄手のお洒落で暖かな下着が登場して、現代人は相当助かっていると思われます。
 昔にも「ラクダ」と呼ばれていた暖かい下着がありましたが、分厚くて着膨れするし高価だったそうで、一般向きではありませんでした(ちなみにラクダとは、色がラクダ色だったからとも、実際にラクダの毛を使っていたとも言われ、今でも現存しているそうです)。

 そして最近見ていないものの一つ。
 幼いころ、吐く息が白くなるような冷え切った朝に、土の道などの脇の地面が盛り上がっている現象が気になりました。「霜柱」です。子供心にも、キラキラするひかりに魅せられたのでしょう。そぉーっと取り上げ、2段3段に重なる「霜柱」の不思議に見入ったことを思い出しました。今でも都心を少し離れれば見ることはできるのかもしれませんが、舗装道路の中に暮らしていると、こんなことも忘れていたことに気づきました。

 それにしましても、ご紹介した「湯たんぽ」「行火」「炬燵」をはじめ、火鉢、懐炉(カイロ)、囲炉裏(イロリ)等々、電気・ガス・石油等に頼らぬ日本人の「暖」の取り方の知恵があったことを懐かしく想い起こしました。


 テレビ屋  関口 宏

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