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テレビ70年

テレビ屋 関口 宏

 前月、このコラムで少しご紹介した話ですが、今年は日本でテレビ放送が始まって70年になります。1953(昭和28)年NHK本放送開始から、NTV、TBSへと順に開局していったのですが、当初、多くの人はテレビなるものを、街頭テレビで知りました。

 ターミナル駅の広場に5メートルほどの台が作られ、その上にテレビなるものが置かれると、物珍しさに人、人、人の山ができました。当時はまだ大きな画面を作る技術はありませんでしたから、おそらく20数インチ程度のものだったと思われますが、遠くからでは頑張って目を凝らしても、ほとんど画面は理解できず、大きく流される実況アナウンスで状況を判断するような状態でした。力道山もナイターも、そうした中で人気が沸騰していったのです。

 そのテレビが、電機メーカーの努力・大量生産によって価格も下がり、一般に普及し始めたのが、1959(昭和34)年の皇太子様(現・上皇様)のご成婚、「ミッチーブーム(美智子妃殿下の人気)」の時でした。

 以来、テレビは茶の間の主役として大事にされ、前の晩、食事をしながら家族で観た番組の話が、次の日、学校や職場での話題になりました。(いやぁ、懐かしい!テレビには、こんな幸せな日々があったのに・・・・・)

 前月も触れましたが、放送開始当初はまだビデオテープなるものがありませんでしたから、ほとんどが「生」放送。ほとんどが、と申しますのは、当時からフィルムに撮影された映像は電波に乗せる技術があって、ニュース番組には16ミリフィルムで取材した映像が使われていました。
 そして子供だった私が一番感動したのが、劇映画を、自分の家のテレビで観られるようになったことでした。それまでは当然のことながら、映画というものは、映画館へ出かけて行かなければ観られないものだったのに、それが我が家に居ながらにして楽しめるようになった不思議と、それがとてつもなく贅沢なことに思えたのです。
 忘れもしません。その映画とは、中村錦之助、東千代之助演じる東映時代劇、『笛吹童子』でした。

 この頃のテレビの受像機は、後ろに長い尻尾のようなものがついたブラウン管によって映像が写し出されるもので、しっかりした画像はなかなか確保できませんでした。電波の状況に影響されることもあり、画像が乱れることしばしば。砂嵐になったり、歪んだり、斜めのフレームだらけになることもあって、「電気紙芝居」と映像の先輩、映画人にからかわれもしました。


ブラウン管

 しかしそれから70年。ビデオテープの登場で番組作りは楽になり、番組の種類も豊富になりました。録画・編集も簡単になり、さらにはカラー化にも成功しましたし、ブラウン管の尻尾もなくなって薄型になり、チャンネルも多様化する。見逃し番組もいつでも観られるようになって、至れり尽くせり状態になったテレビ。

 それなのに視聴者のテレビ離れが止まりません。便利になればなるほど有り難みが薄れてゆくのでしょうか。

 原因はいろいろ考えられます。ネット、SNS等の台頭。世代間ギャップ。番組の質の低下。多チャンネル化。スポンサーの狙いの変化、等々等々。

 放送開始から70年。テレビビジネスが軌道に乗ったのが放送開始から10年目あたりだとして、テレビ離れ現象が起こり始めたのが10年以上前のことになりますから、こんなに華やかで、メディアのトップランナーと自他共に認められたテレビの全盛期は、50年もなかったのかと、考えさせられてしまいました。


 テレビ屋  関口 宏

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