ありがとう『サンデーモーニング』①
テレビ屋 関口 宏
10月22日の『サンデーモーニング』番組内でお知らせしました通り、来年2024年の3月末にて、私、関口宏は、36年お預かりしてきた日曜日の朝、『サンデーモーニング』を世代交代する事にいたしました。
今年80歳になったことも大きな要因ですが、まだまだ元気。そして『サンデーモーニング』もまだまだ元気。だから今が好機と、私もTBSも意見が一致した結果です。
ここで皆様には、これまでの感謝の気持ちをお伝えしなければならないところですが、まだ半年近くの時が残されておりますので、感謝の気持ちは来年3月末までお待ちいただくこととして、しばらくは、このコラムでは36年を振り返ってゆきたいと思っております。
日本のテレビ放送が始まったのが1953年(昭和28年)。その34年後の1987年(昭和62年)、『サンデーモーニング』がスタートしました。
当時の日本は、戦後の経済成長がまだ続いているかの様相を呈していて(それはやがてバブルの崩壊を招くのですが)、その勢いに乗りながらテレビ業界も成長し続けていました。しかしこの当時、テレビはまだ24時間フル操業には至っておらず、深夜・早朝は放送を休む局もありました。
また日曜日の朝は、多くの視聴者はまだ寝ている時間帯であり、視聴率もそれほど上がらないと思われていたのか、競争の激しい時間帯には放送されない役所の広報番組とか、難しい教養番組などが並んでいました。
中には「遠くへ行きたい」(読売テレビ・日本テレビ)とか、「兼高かおる世界の旅」(TBS)といった名物番組もあったのですが、大方の見方は、主戦場ではないとの判断から、地味な30分番組が並べられていました。
そうした中、TBSの古い友人が「日曜の朝、30分番組が立て続けに終わりそうで、1時間半の枠が空くんだけど、何かやりたいことない?」と声をかけてくれたのが始まりでした。
当時私は、海外取材番組「世界食べちゃうぞ!」(日本テレビ)という料理番組を抱えていて、月に何回か海外に出ていたのです。そしてその都度気になったのが、留守中日本で起こる出来事でした。日本に帰って仲間との話について行けなくならないように、帰りの便は日本の航空会社にして、機内に置かれていた日本の新聞・週刊誌を隅々まで読み尽くすのが一種の楽しみにもなりました。そしてその「世界食べちゃうぞ!」が、そろそろ幕引きの時期にきていたのです。
そんな時でしたから私は即座に、「1週間のニュースをまとめた番組をやらせてもらいたい!」と願い出たところ、この企画が通ってしまったのです。当時、1週間をまとめたものは、ニュース映像だけを繋いだ30分の「ニュースウィークリー」(NHK)という番組しかありませんでした。スタジオのコメンテーター達が1週間を語り合う番組などなかったのです。
「どれくらいが及第点?」との私の問いに、その友人は「まぁ6〜7・・・かな」との答え。(うーん、なら、何とかなるだろう)と若かった私は、自信があった訳ではありませんが、駄目元の強気で臨みました。
つまり、視聴率のことです。かつて筑紫哲也氏が、番組の「生存視聴率」という表現をして話題になったことがありましたが、テレビ屋なら常に持っていなければならない神経のこと。許される最低限の数字を確保できなければ、番組は打ち切られてしまうことを覚悟する、それは業界の常識なのです。
先に、この視聴率話の結果だけお伝えしておきますと、スタートしてしばらくは、視聴者に馴染んでいただく時間が必要でしたが、3ヶ月過ぎた頃には及第点を頂き、時には二桁・10%越える日が現れるようになりました。それで36年の長きにわたる「土台」が作られたのですが、では36年間、全く順風満帆であったかと言えば、そうではありません。何度か見舞われたピンチについては、後々お話し致します。
さて「1週間のニュースをまとめる」とは言え、具体的に番組の形を造るには相当の知恵が必要です。そこで話を持ってきてくれたその友人がプロデューサーとなってスタッフ集めが始まり、出てきたアイデアは「9面マルチ」を御本尊にして番組を進行するというものでした。つまりこの当時はまだ大きなモニターがなく、既存の小さなモニターを縦・横三台ずつ、計九台を並べて大きなモニター代わりにしようというもの。今思えば何だかダサイという感じですが、当時としては斬新なアイデアだったのです。何度か本番中に機械が不具合を起こしたものの、スタートから数年は御本尊の役目を果たしてくれました。
1987年10月4日第一回放送
次に考えなければならないことは、出演者です。
スタッフと喧々囂々、すったもんだが続きましたが、結果的には「新しい番組を作るのだから、なるべく新しさを」で根本的な意見がまとまりました。
そしてアシスタントは、オーディションで新人の発掘を目指し、まだ在学中の女子大生も含めて、数人の若い女性が集まりました。
次はスタジオでコメントをして下さる方々の人選。これもあまりテレビ経験のない人の方が新鮮味が出るのでは、ということから相当難航したものの、結果的には、バレーボール選手を引退されたばかりの三屋裕子さん。北野武氏の兄で、化学博士の北野大氏。外国人の意見も聞きたいということから、ケント・デリカット氏、ケント・ギルバート氏にも加わって頂き、難しいことを解説していただく役回りは、TBS解説委員の新堀俊明氏にお願いしました。そしてこの新堀俊明氏が、この新番組の命綱になったと言っても過言ではありません。
番組開始当初のスタジオ風景
オーディションに合格したとは言え、アシスタントの女性達は全くの素人。いわゆるアナウンスのイロハから新堀氏に教えていただかなければなりませんでしたし、何と言ってもこの私、関口宏が問題でした。
俳優から司会業など多くの番組を担当させて頂きましたが、報道系のニュース番組を扱うのはこれが初めて。その時44歳になっていましたから、常識的なことは、ある程度分かっているつもりでしたが、政治の深い話とか、ややこしい国際問題となりますと、新堀氏のご指導を仰がねばならなかったのです。
(今回はここまで。続きは次回②になります。)
テレビ屋 関口 宏
今年80歳になったことも大きな要因ですが、まだまだ元気。そして『サンデーモーニング』もまだまだ元気。だから今が好機と、私もTBSも意見が一致した結果です。
ここで皆様には、これまでの感謝の気持ちをお伝えしなければならないところですが、まだ半年近くの時が残されておりますので、感謝の気持ちは来年3月末までお待ちいただくこととして、しばらくは、このコラムでは36年を振り返ってゆきたいと思っております。
日本のテレビ放送が始まったのが1953年(昭和28年)。その34年後の1987年(昭和62年)、『サンデーモーニング』がスタートしました。
当時の日本は、戦後の経済成長がまだ続いているかの様相を呈していて(それはやがてバブルの崩壊を招くのですが)、その勢いに乗りながらテレビ業界も成長し続けていました。しかしこの当時、テレビはまだ24時間フル操業には至っておらず、深夜・早朝は放送を休む局もありました。
また日曜日の朝は、多くの視聴者はまだ寝ている時間帯であり、視聴率もそれほど上がらないと思われていたのか、競争の激しい時間帯には放送されない役所の広報番組とか、難しい教養番組などが並んでいました。
中には「遠くへ行きたい」(読売テレビ・日本テレビ)とか、「兼高かおる世界の旅」(TBS)といった名物番組もあったのですが、大方の見方は、主戦場ではないとの判断から、地味な30分番組が並べられていました。
そうした中、TBSの古い友人が「日曜の朝、30分番組が立て続けに終わりそうで、1時間半の枠が空くんだけど、何かやりたいことない?」と声をかけてくれたのが始まりでした。
当時私は、海外取材番組「世界食べちゃうぞ!」(日本テレビ)という料理番組を抱えていて、月に何回か海外に出ていたのです。そしてその都度気になったのが、留守中日本で起こる出来事でした。日本に帰って仲間との話について行けなくならないように、帰りの便は日本の航空会社にして、機内に置かれていた日本の新聞・週刊誌を隅々まで読み尽くすのが一種の楽しみにもなりました。そしてその「世界食べちゃうぞ!」が、そろそろ幕引きの時期にきていたのです。
そんな時でしたから私は即座に、「1週間のニュースをまとめた番組をやらせてもらいたい!」と願い出たところ、この企画が通ってしまったのです。当時、1週間をまとめたものは、ニュース映像だけを繋いだ30分の「ニュースウィークリー」(NHK)という番組しかありませんでした。スタジオのコメンテーター達が1週間を語り合う番組などなかったのです。
「どれくらいが及第点?」との私の問いに、その友人は「まぁ6〜7・・・かな」との答え。(うーん、なら、何とかなるだろう)と若かった私は、自信があった訳ではありませんが、駄目元の強気で臨みました。
つまり、視聴率のことです。かつて筑紫哲也氏が、番組の「生存視聴率」という表現をして話題になったことがありましたが、テレビ屋なら常に持っていなければならない神経のこと。許される最低限の数字を確保できなければ、番組は打ち切られてしまうことを覚悟する、それは業界の常識なのです。
先に、この視聴率話の結果だけお伝えしておきますと、スタートしてしばらくは、視聴者に馴染んでいただく時間が必要でしたが、3ヶ月過ぎた頃には及第点を頂き、時には二桁・10%越える日が現れるようになりました。それで36年の長きにわたる「土台」が作られたのですが、では36年間、全く順風満帆であったかと言えば、そうではありません。何度か見舞われたピンチについては、後々お話し致します。
さて「1週間のニュースをまとめる」とは言え、具体的に番組の形を造るには相当の知恵が必要です。そこで話を持ってきてくれたその友人がプロデューサーとなってスタッフ集めが始まり、出てきたアイデアは「9面マルチ」を御本尊にして番組を進行するというものでした。つまりこの当時はまだ大きなモニターがなく、既存の小さなモニターを縦・横三台ずつ、計九台を並べて大きなモニター代わりにしようというもの。今思えば何だかダサイという感じですが、当時としては斬新なアイデアだったのです。何度か本番中に機械が不具合を起こしたものの、スタートから数年は御本尊の役目を果たしてくれました。
1987年10月4日第一回放送
次に考えなければならないことは、出演者です。
スタッフと喧々囂々、すったもんだが続きましたが、結果的には「新しい番組を作るのだから、なるべく新しさを」で根本的な意見がまとまりました。
そしてアシスタントは、オーディションで新人の発掘を目指し、まだ在学中の女子大生も含めて、数人の若い女性が集まりました。
次はスタジオでコメントをして下さる方々の人選。これもあまりテレビ経験のない人の方が新鮮味が出るのでは、ということから相当難航したものの、結果的には、バレーボール選手を引退されたばかりの三屋裕子さん。北野武氏の兄で、化学博士の北野大氏。外国人の意見も聞きたいということから、ケント・デリカット氏、ケント・ギルバート氏にも加わって頂き、難しいことを解説していただく役回りは、TBS解説委員の新堀俊明氏にお願いしました。そしてこの新堀俊明氏が、この新番組の命綱になったと言っても過言ではありません。
番組開始当初のスタジオ風景
オーディションに合格したとは言え、アシスタントの女性達は全くの素人。いわゆるアナウンスのイロハから新堀氏に教えていただかなければなりませんでしたし、何と言ってもこの私、関口宏が問題でした。
俳優から司会業など多くの番組を担当させて頂きましたが、報道系のニュース番組を扱うのはこれが初めて。その時44歳になっていましたから、常識的なことは、ある程度分かっているつもりでしたが、政治の深い話とか、ややこしい国際問題となりますと、新堀氏のご指導を仰がねばならなかったのです。
(今回はここまで。続きは次回②になります。)
テレビ屋 関口 宏