ありがとう『サンデーモーニング』③
テレビ屋 関口 宏
新番組立ち上げのドタバタを経て、1987年(昭和62年)10月、『サンデーモーニング』はヨチヨチ歩きながらスタートしました。
しかし前述しましたように、日曜の朝8時30分(スタート時は8時30分からの1時間半の番組でした)は、まだ他局がのんびりとした番組を並べてくれていましたから、敵なし状態の中で、成績(視聴率)はどんどん伸びました。
するとTBSにも欲が出てきて、枠大、つまり30分の放送時間の延長を求めてきたのです。
(30分の延長くらい、何とかなるでしょう!)敵がほとんどいない中でのプロデユーサーと私の太っ腹な対応。かくて枠大は簡単にまとまり、『サンデーモーニング』は日曜の朝、8時から10時の2時間番組になりました。
しかしこの頃から日曜朝のテレビの状況が変わり始めました。つまり他局が放っておいてくれなくなってきたのです。いくつかの類似番組(すみません。全く異なる番組を目指されていたのかもしれませんが、我々には類似番組に見えていました)が登場。『サンデーモーニング』もウカウカしていられなくなって来ました。
特に大きな問題になったのがプロ野球・ジャイアンツファンの動向でした。そう言えばもうお分かりでしょう。ジャイアンツといえば日本テレビ。その日テレが大リニューアルして、徳光和夫氏と江川卓氏の強烈なジャイアンツコンビを起用して、ジャイアンツファンを根こそぎ持って行ったのです。
参考までにご説明しますと、視聴率の調べ方は日本列島をいくつかのブロックに分けます。東京は関東ブロックとして調査されるのですが、関東の人は、ほとんどがジャイアンツファンと言っても過言ではなく、『サンデーモーニング』の成績が落ち始め、勝負に負ける週も出てきてしまいました。 それは番組がスタートしてから10年目(1997年・平成9年)の頃。この緊急事態に『サンデーモーニング』も、思い切ったリニューアルが求められる事になりました。特にスポーツコーナーが喫緊の課題です。失ったジャイアンツファンがどうすれば戻ってきてくれるのか。そこから2〜3年は試行錯誤の連続でした。
そして我々が行き着いたところが、「本音の語れるOB」。つまりもうユニフオームには未練のない人。コーチや監督として今後も活躍したいと願っている方は、テレビの画面では、どうしても発言し難い場面が出てきてしまいます。そこで「本音の語れるOB」に的を絞ったのです。
真っ先に名前が挙がったのが、私の大学の先輩で、球界では「親分」と呼ばれていた大沢啓二さん。立教大学から南海ホークスで活躍され、選手引退後はニッポンハムの監督をされてユニフオームを脱がれました。面倒見の良い親分肌が人気で、正直ベースの物言いに魅力がありました。
その大沢親分にご登場をお願いしたところ、基本的にはOK。しかし「毎週日曜日となると難しい」とのご返事。じゃぁ、ピンチヒッターを探さねばという事になりハリさん事、張本勲氏に白羽の矢がたちました
ロッテで数々の成績を残し、ジャイアンツに移られてユニフォームを脱がれた張本勲氏。お声をおかけしたところ快諾をいただき、新たなスポーツコーナーがスタートしました。しかも大沢親分が無理な時には張本さんと考えていたところに、ある日、お二人が揃ってお出でになり、それならご一緒に出ていただく事にしたところ、何と息の合った漫才コンビのような面白いコーナーが出来ました。そしてお二人の正直ベースの語りの中から、あの“喝!”“天晴れ!”が生まれたのです。『サンデーモーニング』の新スポーツコーナーはこれ以後、順調に進んで行きました。
こうして何とか最大のピンチを凌げたかに見えた頃、不思議な現象が起きました。プロ野球そのもののテレビ離れが始まったのです。
もう少し詳しく説明しますと、プロ野球というコンテンツが、テレビの「地上波」では賄いきれなくなり、「BS放送」に引越しを始めたのです。つまりプロ野球の人気が落ちたという事になるのですが、特に顕著だったのが東京を中心にした関東ブロック。フランチャイズ制による地方のチームは、地元では相変わらず根強い人気を保っていましたが、関東地区の視聴率が落ち始めたのです。
原因はよく分かりません。もしかすると東京は全国から人の集まる大都市だけに、地元意識が薄く、バラバラであること。またこの頃から、スター選手のメジャー行きも頻繁になってきました。ひょっとすると、若い人達のサッカー人気の高まりも原因していたのかもしれません。
そして驚いた事に、こうした傾向と関係があるかどうか分かりませんが、突然日テレの裏番組が終了してしまったのです。苦労して戦ってきた相手だけに、呆気にとられ少し寂しく感じましたが、どこかでは、楽になったという方が正直な気持ちかもしれません。
それでもマンネリ化の波は時々押し寄せてきます。大きな出来事が起こらない「凪(なぎ)」と我々が呼ぶ状態が続く時に起こりやすい現象なのですが、今も続いている「手作りフリップ」は、ある時のマンネリ打破として考えられた策でした。当時、テレビの表現技術がデジタル、デジタルの流れになっていた事に抵抗して、あえてアナログ技術を使ってみたところ評判も良く、「手作りフリップ」は20年ほど続いています。
今回は、36年間担当してきた『サンデーモーニング』を、2024年3月末で「世代交代」するにあたり、番組の裏話をいくつかご紹介しました。
昭和から平成、そして令和。20世紀から21世紀への「ミレニアム」を経験しました。世界は大きく揺れ動き、一層混沌としてきた感じを受けています。
36年間、全てをご紹介するのは無理なほど、多くの経験をさせていただきました。できれば機会を改めて振り返ってみたいと思っておりますが、最後に一つだけ、私が影響を受けた小さな思い出話をさせていただきます。
それは1989年11月。「ベルリンの壁の崩壊」。この時、東側のドイツ人がインタビューに答えました。
「私達はいつも西側のテレビを観ていました。そして西側の“豊かさ”と“自由”に憧れていたのです」
なんでもなく聞こえるこの声が、私達テレビ屋が目指す方向を示しているように、私には思えました。
テレビ屋 関口 宏
しかし前述しましたように、日曜の朝8時30分(スタート時は8時30分からの1時間半の番組でした)は、まだ他局がのんびりとした番組を並べてくれていましたから、敵なし状態の中で、成績(視聴率)はどんどん伸びました。
するとTBSにも欲が出てきて、枠大、つまり30分の放送時間の延長を求めてきたのです。
(30分の延長くらい、何とかなるでしょう!)敵がほとんどいない中でのプロデユーサーと私の太っ腹な対応。かくて枠大は簡単にまとまり、『サンデーモーニング』は日曜の朝、8時から10時の2時間番組になりました。
しかしこの頃から日曜朝のテレビの状況が変わり始めました。つまり他局が放っておいてくれなくなってきたのです。いくつかの類似番組(すみません。全く異なる番組を目指されていたのかもしれませんが、我々には類似番組に見えていました)が登場。『サンデーモーニング』もウカウカしていられなくなって来ました。
特に大きな問題になったのがプロ野球・ジャイアンツファンの動向でした。そう言えばもうお分かりでしょう。ジャイアンツといえば日本テレビ。その日テレが大リニューアルして、徳光和夫氏と江川卓氏の強烈なジャイアンツコンビを起用して、ジャイアンツファンを根こそぎ持って行ったのです。
参考までにご説明しますと、視聴率の調べ方は日本列島をいくつかのブロックに分けます。東京は関東ブロックとして調査されるのですが、関東の人は、ほとんどがジャイアンツファンと言っても過言ではなく、『サンデーモーニング』の成績が落ち始め、勝負に負ける週も出てきてしまいました。 それは番組がスタートしてから10年目(1997年・平成9年)の頃。この緊急事態に『サンデーモーニング』も、思い切ったリニューアルが求められる事になりました。特にスポーツコーナーが喫緊の課題です。失ったジャイアンツファンがどうすれば戻ってきてくれるのか。そこから2〜3年は試行錯誤の連続でした。
そして我々が行き着いたところが、「本音の語れるOB」。つまりもうユニフオームには未練のない人。コーチや監督として今後も活躍したいと願っている方は、テレビの画面では、どうしても発言し難い場面が出てきてしまいます。そこで「本音の語れるOB」に的を絞ったのです。
真っ先に名前が挙がったのが、私の大学の先輩で、球界では「親分」と呼ばれていた大沢啓二さん。立教大学から南海ホークスで活躍され、選手引退後はニッポンハムの監督をされてユニフオームを脱がれました。面倒見の良い親分肌が人気で、正直ベースの物言いに魅力がありました。
その大沢親分にご登場をお願いしたところ、基本的にはOK。しかし「毎週日曜日となると難しい」とのご返事。じゃぁ、ピンチヒッターを探さねばという事になりハリさん事、張本勲氏に白羽の矢がたちました
ロッテで数々の成績を残し、ジャイアンツに移られてユニフォームを脱がれた張本勲氏。お声をおかけしたところ快諾をいただき、新たなスポーツコーナーがスタートしました。しかも大沢親分が無理な時には張本さんと考えていたところに、ある日、お二人が揃ってお出でになり、それならご一緒に出ていただく事にしたところ、何と息の合った漫才コンビのような面白いコーナーが出来ました。そしてお二人の正直ベースの語りの中から、あの“喝!”“天晴れ!”が生まれたのです。『サンデーモーニング』の新スポーツコーナーはこれ以後、順調に進んで行きました。
こうして何とか最大のピンチを凌げたかに見えた頃、不思議な現象が起きました。プロ野球そのもののテレビ離れが始まったのです。
もう少し詳しく説明しますと、プロ野球というコンテンツが、テレビの「地上波」では賄いきれなくなり、「BS放送」に引越しを始めたのです。つまりプロ野球の人気が落ちたという事になるのですが、特に顕著だったのが東京を中心にした関東ブロック。フランチャイズ制による地方のチームは、地元では相変わらず根強い人気を保っていましたが、関東地区の視聴率が落ち始めたのです。
原因はよく分かりません。もしかすると東京は全国から人の集まる大都市だけに、地元意識が薄く、バラバラであること。またこの頃から、スター選手のメジャー行きも頻繁になってきました。ひょっとすると、若い人達のサッカー人気の高まりも原因していたのかもしれません。
そして驚いた事に、こうした傾向と関係があるかどうか分かりませんが、突然日テレの裏番組が終了してしまったのです。苦労して戦ってきた相手だけに、呆気にとられ少し寂しく感じましたが、どこかでは、楽になったという方が正直な気持ちかもしれません。
それでもマンネリ化の波は時々押し寄せてきます。大きな出来事が起こらない「凪(なぎ)」と我々が呼ぶ状態が続く時に起こりやすい現象なのですが、今も続いている「手作りフリップ」は、ある時のマンネリ打破として考えられた策でした。当時、テレビの表現技術がデジタル、デジタルの流れになっていた事に抵抗して、あえてアナログ技術を使ってみたところ評判も良く、「手作りフリップ」は20年ほど続いています。
今回は、36年間担当してきた『サンデーモーニング』を、2024年3月末で「世代交代」するにあたり、番組の裏話をいくつかご紹介しました。
昭和から平成、そして令和。20世紀から21世紀への「ミレニアム」を経験しました。世界は大きく揺れ動き、一層混沌としてきた感じを受けています。
36年間、全てをご紹介するのは無理なほど、多くの経験をさせていただきました。できれば機会を改めて振り返ってみたいと思っておりますが、最後に一つだけ、私が影響を受けた小さな思い出話をさせていただきます。
それは1989年11月。「ベルリンの壁の崩壊」。この時、東側のドイツ人がインタビューに答えました。
「私達はいつも西側のテレビを観ていました。そして西側の“豊かさ”と“自由”に憧れていたのです」
なんでもなく聞こえるこの声が、私達テレビ屋が目指す方向を示しているように、私には思えました。
テレビ屋 関口 宏