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結婚・家族・難民

パレスチナ料理研究家 菅 梓

 私は1通目のメールを受信した。
 
 「今から非公式ルートでヨーロッパを目指す。しばらく連絡取れないかもしれないけど心配しないでくれ。また連絡する」。
 
 彼の名前はムハンマド、パレスチナのガザ地区出身だ。学生の頃に留学という形でガザを離れアルジェリア、インドで過ごした。当時、インドのマイソール大学には少なくない人数の留学生がヨルダン、イラクなど中東から来ていた。彼もその一人だった。ムハンマドが大学院生だった同時期の2012年から2013年にかけて私はインドのマイソールに滞在しておりその際に訪れた外国人が集まるカフェで共通の友人を介して知り合った。

マイソール大学の仲間であるヨルダン人の友人を挟んでムハンマド(左)と私(右)



 「僕はスペシャルエリア、ガザ地区の出身のムハンマド。よろしく。」と右手を差し出し私たちは握手をした。
 大学院の卒業を機に就職活動をしたけれどガザ人であることが原因で内定の取り消されたと言う。パレスチナ人がビザなしで訪問できる国は限られている。就職が決まらないムハンマドはビザがなくても入国ができるヨルダンに入った。そこからウガンダ行きの飛行機チケットを購入しウガンダに飛んだ、と見せかけ、実は経由地のベルギーブリュッセルで難民申請をした。
 私にメールを送ったのはヨルダンの首都アンマンからだった。2014年の終わりの頃だ。時は欧州難民危機と言われおり多くの人がヨーロッパを目指した。ある者は歩き、ある者は密航船に乗り、難民申請に漕ぎ着ける人もいれば、命を落とす人もいた。
 
 「今、ベルギーの難民キャンプにいます。無事です。ここは5つ星の監獄です。元気です。また連絡します」。

ベルギーで散歩した時のムハンマド



 ベルギーの難民キャンプでしばらく過ごし難民教育プログラムを受け、家を見つけキャンプを出た。一人で暮らすことになったムハンマドを襲ったのは差別からくる孤独感だった。仕事も見つからず支援金で暮らす。とにかく1 日が早く終わるのを待つ日々。
 2017年夏、ベルギー、アントワープの駅で彼と再会した。「訪ねてきてくれた友達なんていないよ」。ガザからベルギーは距離以上に遠い、訪ねたくても訪ねられない人がほとんどだろう。二人でアントワークの街を歩いた。ムハンマドはアントワープの観光ガイ ドのように教育プログラムで習った歴史や史跡の説明を淀みなくしてくれた。
 地下鉄のホームで声をかけてきた同年代の男性がいた。彼もまたガザ人だった。ムハンマドが15歳の頃のクラスメイトだった。「こんなところで故郷の友達に会えるなんて不思議ね!」 「彼は同級生で友達じゃない、ここで生きるのは大変だよ。彼も僕もね。彼は 今ブローカーの仕事をしているらしい」。
 
 その夜、彼は孤独に苛まれていることを吐露した。「家族が欲しい」。外国で同郷の知り合いにあっても信用できない、顔見知りに出会って挨拶をしても無視される、住居探しも「難民に貸す部屋はない!」と何度も断られた。自分は存在しているはずなのに、存在していないかのような扱いを受ける現実。そこから逃れるために彼は家から出ない日々が続いていた。出来るだけ長く眠って出来るだけ早く明日が来るように。
 
 半年後、パレスチナ、ナブルス滞在中に電話がなった。ムハンマドからだ。「聞いてくれ、婚約したんだ」「誰と?」「もちろん、ガザの人さ。だから、いつ結婚できるかわからない」。
 
 パレスチナでも自由恋愛の末、結婚する人もいるがいまも親の設定したお見合いで相手を決める人も多い。ムハンマドは故郷の風習に則ったお見合いをし、婚約したのだ。でもどうやって?古典的なお見合いと文明の利器スカイプを組み合わせたスタイルで。 「お母さんが素敵な女性がいるからお見合いしなさいって言ってくれて。それでベルギーとガザでスカイプ繋げて。それで話をしても素敵な人だったから交際を申し込んだんだ。ガザは封鎖されている。彼女がベルギーに来られるのは いつになるかわからない、でも僕らは結婚することにした」。
 
 めでたく半年後に彼女はガザを脱出することができた。諸事情あり、彼女はカナダ周りでベルギーに到着した。初対面の二人は結婚した。空爆なんてそうそう起きることはないだろう、ベルギーに来られた彼女、 家族が欲しいと孤独に苛まれたムハンマド。この状況での婚約、結婚は恋愛と言えないかもしれない、しかし結束された絆は愛と言い換えられる。
 1年後二人に待望の赤ちゃんが生まれた。名前はヤスミン。彼女は難民2世 のガザ人でありベルギーパスポート保持者として生まれた。

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