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80歳、酸欠日記②

塾長  君和田 正夫

 階段を上って測り、下りて測り、一日何回

 1月31日にコロナ陽性と判定され、入院することになった。私はタバコの吸い過ぎによる「肺気腫」という病気を抱えている。コロナ感染は一番恐れていた事態だ。
 妻におもちゃのような機械を見せられて「試してみてよ」といわれたことがある。機械は「パルスオキシメーター」という血中に酸素がどれだけ供給されているかを、皮膚を通して調べる機械だった。脈拍を示す数字も出る。指を入れたら88とか89とかいう数字が出た。この数字はSpO2(エスピーオーツー=注)という。パーセント表示だ。家内は99、98。私の数字と10ポイントも差がある。
 数字が何を示すか。いろいろな診断基準があるようだが、96~100が平常という基準が多い。妻は平常だ。ついで94~95になると、いきなり「要注意」になってしまう。90~93は「酸素投与」が必要という段階にまで悪化する。
 では90を切るとどうなるか。89以下はなんと「呼吸不全」だ。私はどの基準を使っても明らかに「呼吸不全」だ。いずれにしても80台は問題外の危険水域だった。ゴルフのときに息が切れて立ち眩(くら)みしていたのは呼吸不全だったのか。3月15日の1回目のご臨終騒ぎの時はなんと60台だったそうだ。
 自宅に戻った今、起きてから寝るまでパルスオキシメーターを何回使っているだろうか。10回ということはないだろう。20回?それとも30回?95以上だと安心する。80台だとイラつく。
 5月に退院してから自宅にはボンベを置いている。寝るときにスイッチを入れ、起きたら切る。「カニューラ」という細いホースで患者の鼻に酸素を送る。酸素量は1分間に3リットルまで。回復状態が悪くないということで1リットルに抑えられている。
 おかげで朝起きた時はパルスオキシメーターの数字は98とか99で満点といっていい。起きて2階から1階へ降りて測り、洗面をして測り、新聞を取りに出て測り、と測定を繰り返し、運動量と酸素充満度の関係を確かめる。話をすることが1番酸素を使うように思える。

 「一度は退院させてやりたい」

 3月8日は別の病気の診察を受けるために予約した日だった。ところが肺の調子が良くないと思ったので、ついでに診てもらおうという軽い気持ちで診察をお願いした。レントゲン、血液検査の結果、戻ってきた返事が「即入院」だった。

 担当医師の言い方は厳しく、確信に満ちていた。「このくらいの息苦しさは日常だ。そんな大げさなものではないだろう」という患者の、日ごろのいい加減さがなじられるようだった。
 その病院では1月31日に1度コロナ陽性の判定を受けている。幸い入院しているあいだに陰性に転じ、コロナ患者ではなくなっていた。そのため「即入院」と言われても同じ病院で世話になるわけにいかなかった。そのまま救急車で普通の、別の病院に直行した。「俺はそんなにヤバかったのか」と救急車が用意されたこと自体にも驚かされた。
 直行先の医師も間質性肺炎の怖さを十分わかっていた。ただ分かりすぎる一言が妻を凍りつかせた。
 「一度は退院させてやりたいですね」。
 もちろん患者本人はそのような会話が交わされたことを知らない。


 この日記を書く気になったのは、メディアの行く末など心配しても意味ないよ、と確信したからだ。そう、確信だ。メディアに酸素供給などない。「あきらめは心の養生」といったところか。しばらくはおろそかにしていた家族のことを考えて養生でもしよう。
 私は家族の死に目に1回も立ち会っていない。父の2度目の脳梗塞に間に合わなかった。母は前述のとおりで後悔だけ私に残した。5つ違いの兄は私と死の競争をしているかのようにして死んだ。私は酸素ボンベを鼻に付けて空気をもらい、点滴で血管に栄養や薬を送り込んでもらってやっと生きていた。兄はすでに遺書を書き終えている。ベッドから1歩も動けないオレの方が先に行っても少しもおかしくない。しかし何としてもそんな事態になってほしくない。なぜだかわからないが、オレが先に死ぬわけにいかないだろう、と思った。ありがたいことに、兄は私の入院中の4月に先に亡くなってくれた。もちろん私は葬儀に参列できなかった。とっくの昔に死んだ妹の子供たちが面倒を見てくれた。
 オレには妻と子供2人以外誰もいない。それなのに死を冷静に迎えられたと喜ぶのはやめよう。無理をしてでも顔を合わせてから死のう。メディアの行く末は、そのついでに見られたら十分だ。

<注=SpO2(エスピーオーツー)>パルスオキシメーターで測るのは動脈(心臓から全身に運ばれる血液)に含まれる酸素(O2)の飽和度(Saturation:サチュレーション)。皮膚を通して(percutaneous)測るので、その測定値をSpO2(エスピーオーツー)と呼ぶ。

(2022.07.01)

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