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80歳、酸欠日記③

塾長  君和田 正夫

 排泄が恥ずかしい

 命の恩人ではないか、と思った看護師がいた。石渡陽紀君、30歳。ご臨終騒ぎがあった3月15日の担当だ。夜中、暑さに苦しんでいるときに起こされた。「37度7分あるよ。氷嚢(ひょうのう)を用意するね」。おかげでやっと気持ちよく寝られる、と思ったとたん、「まずいよ、38度超えたよ。苦しくない?」と石渡君。再び汗びっしょり、あっという間に苦しさが押し寄せてきた。「苦しい」と何度も呻く。「酸素を1%上げてみるからね」「君和田さん、頑張ってね」。夜勤がもう1人駆け付ける。痰や夜食で食べたものを吸いだす。
 一夜明けて翌朝、彼に名前や年齢を聞くと「なぜ名前を?」とけげんな表情をする。名前を聞かれることが理解できない様子だった。「君が走りまわってくれなかったら、俺は死んでいた。恩人だよ」と答えると、さらにいぶかしげに「誰でもやる決まったことですよ」という。今、彼は別の病院にいるだろう。そこで自分の名前がこの原稿に出ていることを仮に知ったとしても、なぜ命の恩人なのか十分納得してはくれないかもしれない。
 次の当番の朝、彼は「私、〇日に辞めます」と突然言ってきた。看護師はいま人手不足だ。
 この日は完全にお別れパターンの1日になった。難病の血管炎のため透析やカテーテル検査を3年も繰り返している中学・高校時代の仲間がいる。彼と電話で話した。ステロイドの副作用に注意せよ、などの忠告をもらった。彼は以前、ゴルフの練習くらいできそうだと出かけて骨折した経験がある。
 汚い話で恐縮だが、入院して参っていることの最大のものは排便、排尿だった。点滴で身動きできないので看護師の女性たちの前に両足を広げて処理してもらう。これが「とてつもなく恥ずかしい」というと「それはナイーブすぎる。俺なんか、すっかり慣れてしまって、なんにも感じないよ」と言われてしまった。
 高校時代の仲間たちは1カ月に1回、定期的に横浜で会っている。そのなかで「先にいなくなるのは俺かお前どちらかだろう」という結論で電話を終えた。

 「私は3カ月寝たきりよ」

 私の病気はコロナを卒業し、肺炎になり、肺炎が持病の肺気腫を悪化させ、さらに今は両方が重なった「低酸素病」になっている。そこでステロイドを3日間投与することになった。酸素も鼻の近くに空気を送り込んでいたのを、強制的に送り込む方式に変えた。
 3月19日、咳・痰が激しくなった。体力的・精神的に限界が近づいているように感じ始める。食事、トイレすべて寝たきり。気がなえてくる。風呂には入れず、シャワーだけ。入院してまだ10日しか経っていない。
 翌20日、妻にそう話すと、ひどく怒られた。
 「私は3カ月間、寝たきりだったのよ」。
 確かにそうだ。妻は2009年12月からギランバレー症候群に苦しめられた。ギランバレーは当時、すでに知られた病気だった。女優の大原麗子が発症し、2009年に死亡し、死因についてギランバレーとの関係が疑われていたからだ。妻は壁に縋りつくようにして2階の階段を下りてきて会社から帰った私を迎えた。その日から翌年3月にリハビリを終えて退院するまで、ベッドと車いすだけの長い生活が始まった。
 人間はウイルスや細菌による感染に対して防衛的に免疫が働く。ところが時にその免疫反応が自分自身の末梢神経を攻撃してしまうことがある。症状としては立てない、歩けない、走れない、口から水が漏れる、しゃべれない、など多様だ。ピクリとも動けない日が続き、そして呼吸が困難になる。妻は水をうまく飲むことができなかった。だらだらとこぼれてしまう。当然ステロイドも使った。
 妻は家の近くの聖テレジア病院でリハビリをするところまで回復した。映画監督の大島渚さんと奥さんの小山明子さんが黙々と車いすを押していた。「青春残酷物語」「日本の夜と霧」「戦場のメリークリスマス」・・・。世界的な名監督が何かに耐えるかのようにリハビリに取り組んでいる。その姿に励まされた。妻に叱られてからは彼の一途な姿を思い浮かべることにした。彼の死も肺炎で80歳だった。
 私の肺に弱点があることを妻は早くから察知していたようだ。音楽会に行っても座っているだけで呼吸が荒くなる。ハーハー、ゼーゼー。隣の人に聞こえているのではないか。迷惑が掛かっているのではないか。そう心配していたらしい。 コロナに感染してからというもの、妻の言うことに説得力が増している。
 なにかあったらすぐ病院に行け、無理をするな。何度か注意されていた。にもかかわらず、聞く耳を持たなかった。

(2022.07.01)

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