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80歳、酸欠日記⑦

塾長  君和田 正夫

 ソクラテスはどちらか 是か非か

 特ダネ記者にも名文記者にもなれなかったのに、原稿は厳しいデスクに鍛えられた。戦争が終わって間もない1947年10月11日、ヤミ米を取り締まる立場の人間がヤミ米を食べてはいけないと言って東京地裁判事が餓死した。ソクラテスの「悪法も法なり」の精神が称賛された。スクープしたのは判事の故郷、佐賀支局で記者をしていた分部照成だった。それから17年後、分部は朝日新聞山口支局のデスクとして私たちの前にいた。
 痩せて小柄で眼光鋭い、見るからに特ダネ記者風の容貌。彼は入社したばかりの私たちの原稿を、気持ちいいほどボツにした。必死に書いた原稿用紙30枚を読み終わるか終わらないかのうちにパラパラと投げ捨てる。原稿用紙はひらひらと支局の床に舞った。新米記者は慌てて拾い集めた。どこが悪い、どこを書き足せばいい、そんなこと自分で考えろ。なにか言われた記憶はない。
 彼は夏になると、足元に水を入れたバケツを置き、足を冷やしながら原稿を読んだ。
 餓死事件の筆者であることを知ったのは赴任してからしばらくしてからだった。以来、彼はまぶしく見挙げる存在になった。
 分部はジャーナリスト徳本栄一郎氏のインタビューにこう答えている。95歳で亡くなる前のことだ。
 「当時は敗戦直後で皆が虚脱状態でした。そこへ山口判事は『我こそが日本人だ』というのを見せた訳です。鍋島藩の葉隠精神を地で行った人ですよ」(週刊朝日 2015年10月30日号)
 山口は病床日記に「自分はソクラテスではないが、食糧統制法の下、敢然ヤミと闘って餓死するつもりである」と記している。
 ところが、この葉隠れ精神がコテンパンに罵倒されていることを後に知ることになった。批判者は冤罪事件などで有名な弁護士正木ひろしだ。私は正木を学生時代から尊敬してきた。「首無し事件」という本は新聞社を受ける動機にもつながった。著作集Ⅳ「山口判事を評す」から批判を引用する。

 「判事に感心する人間を軽蔑する」

 「私は、山口判事に感心しないのみならず、これに感心する人間を軽蔑する」
 「日記によれば、彼は現在の食糧統制法が、自分を餓死に導く死の行進と知りつつ、これを自分自身に強行したのみならず、国民に対してもその実行を求め、『断固として処断』した。そして彼みずからは、ソクラテスを以って任じている。これほどオカシナことはない」
 「ソクラテスが判事であったなら、(略)ことごとく無罪とするか、(略)判事をやめて、法律の改正に懸命な努力をしただろう」
 国民にまで実行を求め「処断した」のは確かに「オカシナ」ことだ。と思いつつも今でも山口判事の覚悟に感心する。その代償として正木弁護士の強烈な軽蔑に耐えなければならない。手持ちの時間が少なくなってきた80歳代に入って、山口の餓死と正木の批判のぶつかり合いに、どのような決着があるのだろうか、という気持ちが強くなっている。


 入社した1960年代の新聞は食糧難の時代をとっくに終え、東京オリンピックの成功に湧き、1990年代の黄金期に向けて走り始めていた。その先にはデジタル化への乗り損ねが待っていた。

 ガス欠の新聞に求められるもの

 言論の自由の先進国であり、後進国とも言える米国で驚くべき事態が進んでいることを新聞協会報が伝えている。
 新聞協会報6月28日号。「オピニオン面が読者離れの理由になっている。だから削減する」と、米国の大手新聞グループ、ガネット傘下の地方紙がオピニオン面の発行回数を減らし始めたという。
 日米ではオピニオン面の性格や作り方が違うが、ガネットが減らす理由にメディアへの限りない不信がうかがえる。米国読者の不信は3点。

 ①読者は考えるべきことをメディアに教えてほしいと思っていない。
 ②ほとんどの課題についてメディアが専門知識を持っているとも考えていない。
 ③メディアの議題設定は偏向していると思っている。

 ③の偏向については驚くことではないが、①と②は強烈なパンチだ。
 新聞協会報によると、米国日刊紙の5分の1にあたる250社を傘下に置く新聞チェーン、ガネットは4月にグループ地方紙の編集長が集まって会議をした。そこで出た意見は、ソーシャルメディアに意見があふれる時代に社説・論説はあまり読まれていない。それどころか購読中止の理由に挙げられている、という。
 議論を受けて、何紙かがオピニオン面を毎日掲載することをやめた。オハイオ州のデモイン・レジスター紙は「党派的な同じ論点の繰り返し」「講義を受けていると感じる」などの批判で論説欄の掲載は平日木曜だけにした。
 USAトゥデイの編集長は「ニュース産業全体の進化の一環。ニュースルーム進化の最後の部分だ」と位置付けたという。「進化の最後の部分」とはどういう意味なのだろう。オープンソースと呼ばれる公開されたデジタル情報を徹底活用する段階に入ったということだろうか。ソーシャルメディアの一角で戦わなければならない、という意味だろうか。

 次世代メディアは戦争の臭いとともに

 日本でも新聞の部数減は激しい。新聞協会によると、2020年から2021年のわずか1年で新聞は206万部減った。これは産経新聞一紙の発行部数を大きく上回る減少幅と推定される。もっとさかのぼれば、2000年に7189万部あったものが、2021年には3951万部に。この間、人口1000人当たり部数は570部が319部に減った。記事も広告も減った。
 「とても読み切れるものではない」という行数の長い原稿、論文が増えている。取材経費を削減するためだろうか、生のニュース原稿が減った。新聞はすでにガス欠状態だ。論や説が酸素の力を持つことはないだろう。


 メディアが読者に「教える」ことはとても危険なことだ、この感覚は大事にしたいと長い間思ってきた。昨今のように「好戦気分」が盛り上がっているときは、どちらの側からも、とりわけ威勢のいい方から危険な風が吹く。
 次の時代を背負う媒体は戦争とともにやってくるのだろう。新聞の良き時代が戻ることはない。
(2022.07.20)

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