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「東芝に来てまず驚いたのは、社長室にバスルームがあったことだ」

 独立メディア塾 編集部

 土光敏夫(1896年9月15日~1988年8月4日)は1965年、石川島播磨重工業の社長から東京芝浦電気社長になった。最初に実施したのは役員室のバス、トイレ、キッチンの撤去だった。
「政治家と待合などで会うべきでない。話があるなら昼間、正面から訪ねていけ」
 経済団体連合会(経団連)会長になっての発言。

 「土光臨調」で国鉄など民営化

 土光敏夫は大学卒業後、IHI(アイ・エイチ・アイ)の前身である東京石川島造船所に入社。石川島重工業社長時代の1960(昭和35)年、播磨造船所との合併を実現した。石川島の社長時代、バス、電車での通勤が当たり前と思っていた。
 1965(昭和40)年、経営難に陥っていた東芝の社長に就任し、1974(昭和49)年から経団連会長を2期6年務めた。
 1981(昭和56)年には鈴木善幸首相に請われ、第2次臨時行政調査会長に84歳で就任。「土光臨調」と呼ばれ、全国で行革国民会議が開かれた。
 「増税なき財政再建」を旗印に、国鉄、電電公社、専売公社3公社の民営化を打ち出し、中曽根康弘首相(当時)に答申を提出した。その3社は現在のJR、NTT、JTだ。
 普段の生活ぶりは質素で、生活費以外の残りの収入は橘学苑に寄付していた。同校は1942(昭和17)年に土光の母、土光登美が設立した中・高一貫教育の学校。「正しく強く」「個人は質素に、社会は豊かに」を指針にしている。
 土光の質素ぶりを示すエピソードはたくさんあるが、1982年7月に放送されたNHK特集「85歳の執念 行革の顔・土光敏夫」がインパクトがあった、といわれている。土光が夫人と2人で食べる夕食のシーンだった。「たまたま、その日の献立は、僕の大好きなメザシと野菜の田舎煮、それに汁物とご飯であった。以後、『メザシの土光さん』と呼ばれるようになった」。乗用車を使わず、電車で通勤したことも知られている。

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