「ツラで飯をく食うというのは好きじゃない」
 独立メディア塾 編集部
三船敏郎(1920年4月1日~1997年12月24日)は日本を代表する映画俳優。黒澤明監督と組んで「羅生門」「七人の侍」「用心棒」など多数の映画の主役を演じた。『羅生門』はヴェネチア国際映画祭で金獅子賞、「七人の侍」は同銀獅子賞を獲得し、「世界のミフネ」と言われた。セリフを完璧に覚えて撮影に臨んだこと、演技プランを「三船ノート」にびっしり書き込んでいたことなど高いプロ意識で知られた。
「集まった人数は約千八百名とされている。『世界のミフネ』と呼ばれた俳優の死を悼むには、少ない人数である」「三船と親交があった石原裕次郎の葬儀では三万五千人、勝新太郎は一万一千人、渥美清が三万七千人。最高は美空ひばりで、四万二千人というデータがある」
ちなみに黒澤明の葬儀会葬者は三万五千人。(堀川弘通「評伝黒澤明」)
三船は見事な乗馬の技術を持っていた。「隠し砦の三悪人」の中で、逃げていく騎馬武者3人を片付けるシーン。三船が刀を両手で握ったまま馬を疾走させる。手綱は握らず、巻き付けているだけ。吹替え用に流鏑馬のプロを待機させていたが、三船は全カットを自身で演じた。また、かなりの傾斜のある坂道を、いつも三船が先頭を切って駆け下りてきたが、周りの役者は技術未熟で落馬が続出したという。(「東宝砧撮影所物語」「サムライ 評伝三船敏郎」から)
「昼の休みにセットから出て来ると、高峰秀子に呼び止められた。『凄いのが一人いるんだよ。でも、その男、態度が少し乱暴でね、当落すれすれってところなんだ。ちょっと、見に来てよ』
私は昼食もそこそこに、試験場へ行ってみたが、そのドアを開けてぎょっとした。若い男が荒れ狂っているのだ」
「生け捕られた猛獣が暴れているような凄まじい姿で、暫く私は立ち竦(すく)んだまま動けなかった」
三船はニューフェース募集の課題演技として怒りを実演していたのだが、審査結果は落第。黒沢が審査のやり直しを要求して、試験官だった山本嘉次郎(映画監督)の口利きでかろうじて合格になった。「蝦蟇の油」の中で三船について「なんでも、ずけずけずばずば表現する、そのスピード感は、従来の日本の俳優には無いものであった」と評価している。しかし三船本人は「ツラで飯を食うのは好きじゃない」と、俳優の道を嫌い、生家で身に付けた写真技術を生かして撮影する側の仕事を望んでいた。三船のデビュー作品になった1947年公開の「銀嶺の果て」には渋々出演したという。
ニューフェース時代の「三船ノート」には「俳優は、肉体的諸条件、容貌。顔かたちの美しさと同時に、あらゆる意味で、フレッシュでなければならない」とある(「東宝撮影所物語」から)。
「椿三十郎」の最後のシーン。血が噴き出して一瞬で終わった三船・仲代達矢の決闘シーンは、三船がなかなか納得せず、「抜くと同時に切らなければダメだ」と自分で振付を考えたという。(「世界の映画作家3 黒沢明」から)
1962年に「三船プロダクション」を設立、後を追うように、勝新太郎が「勝プロ」、石原裕次郎が「石原プロ」、中村錦之助が「中村プロ」を設立し、四大スターのプロダクションが誕生した。
三船の葬儀に黒沢は足の具合が悪く参列できなかったが、「もし、三船君に出会わなかったら、僕のその後の作品は、全く違ったものになっていたでしょう」という弔辞を代読させた。
社会人になっている三船の次男は次のように振り返っている。
「父が会社を作らずに、三船敏郎という俳優の仕事だけで生きていたら、歳とっても色々な役ができたのではないかと思います。(略)最初から最後まで一俳優であってくれたらよかったのに。私にはそれが一番残念です」(「サムライ 評伝三船敏郎」から)
葬儀にはわずか1800人
「サムライ 評伝三船敏郎」(松田美智子著)は意外な書き出しで始まる。序章「忘れられた栄光」で青山葬儀所での三船の葬儀の様子が描かれる。「集まった人数は約千八百名とされている。『世界のミフネ』と呼ばれた俳優の死を悼むには、少ない人数である」「三船と親交があった石原裕次郎の葬儀では三万五千人、勝新太郎は一万一千人、渥美清が三万七千人。最高は美空ひばりで、四万二千人というデータがある」
ちなみに黒澤明の葬儀会葬者は三万五千人。(堀川弘通「評伝黒澤明」)
三船は見事な乗馬の技術を持っていた。「隠し砦の三悪人」の中で、逃げていく騎馬武者3人を片付けるシーン。三船が刀を両手で握ったまま馬を疾走させる。手綱は握らず、巻き付けているだけ。吹替え用に流鏑馬のプロを待機させていたが、三船は全カットを自身で演じた。また、かなりの傾斜のある坂道を、いつも三船が先頭を切って駆け下りてきたが、周りの役者は技術未熟で落馬が続出したという。(「東宝砧撮影所物語」「サムライ 評伝三船敏郎」から)
日本人俳優にないスピード感
三船との出会いについて、黒沢は「蝦蟇の油 自伝のようなもの」で次のように振り返っている。1946年の「ニューフェイス募集」の試験風景だ。「昼の休みにセットから出て来ると、高峰秀子に呼び止められた。『凄いのが一人いるんだよ。でも、その男、態度が少し乱暴でね、当落すれすれってところなんだ。ちょっと、見に来てよ』
私は昼食もそこそこに、試験場へ行ってみたが、そのドアを開けてぎょっとした。若い男が荒れ狂っているのだ」
「生け捕られた猛獣が暴れているような凄まじい姿で、暫く私は立ち竦(すく)んだまま動けなかった」
三船はニューフェース募集の課題演技として怒りを実演していたのだが、審査結果は落第。黒沢が審査のやり直しを要求して、試験官だった山本嘉次郎(映画監督)の口利きでかろうじて合格になった。「蝦蟇の油」の中で三船について「なんでも、ずけずけずばずば表現する、そのスピード感は、従来の日本の俳優には無いものであった」と評価している。しかし三船本人は「ツラで飯を食うのは好きじゃない」と、俳優の道を嫌い、生家で身に付けた写真技術を生かして撮影する側の仕事を望んでいた。三船のデビュー作品になった1947年公開の「銀嶺の果て」には渋々出演したという。
ニューフェース時代の「三船ノート」には「俳優は、肉体的諸条件、容貌。顔かたちの美しさと同時に、あらゆる意味で、フレッシュでなければならない」とある(「東宝撮影所物語」から)。
「椿三十郎」の最後のシーン。血が噴き出して一瞬で終わった三船・仲代達矢の決闘シーンは、三船がなかなか納得せず、「抜くと同時に切らなければダメだ」と自分で振付を考えたという。(「世界の映画作家3 黒沢明」から)
「最後まで俳優でいてほしかった」
三船は黒沢監督のもと、16本の映画で主演した。1962年に「三船プロダクション」を設立、後を追うように、勝新太郎が「勝プロ」、石原裕次郎が「石原プロ」、中村錦之助が「中村プロ」を設立し、四大スターのプロダクションが誕生した。
三船の葬儀に黒沢は足の具合が悪く参列できなかったが、「もし、三船君に出会わなかったら、僕のその後の作品は、全く違ったものになっていたでしょう」という弔辞を代読させた。
社会人になっている三船の次男は次のように振り返っている。
「父が会社を作らずに、三船敏郎という俳優の仕事だけで生きていたら、歳とっても色々な役ができたのではないかと思います。(略)最初から最後まで一俳優であってくれたらよかったのに。私にはそれが一番残念です」(「サムライ 評伝三船敏郎」から)