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「脱獄宣言するときは腹から絞り出すような太い声で相手を威圧するんだ」

 独立メディア塾 編集部

 白鳥由栄(1907年=明治40年7月31日~1979年2月24日)は、日本の元受刑者。収容先の刑務所に服役中、26年間に4回の脱獄を実行し、「昭和の脱獄王」として名を馳せた。表題の言葉は看守が囚人に向かって「懲罰」と怒鳴ったときなどに、白鳥も負けずに「必ずここを破って逃げて見せる」とやり合っていた。その脱獄宣言するときの心得を語ったもの。つらく当たった看守には必ず脱獄を予告したという。(「脱獄王 白鳥由栄の証言」斎藤充功著から)。作家の吉村昭は白鳥をモデルに小説「破獄」を書いている。

 白鳥が府中刑務所の正門を出たのは昭和36年12月22日午前6時30分だった。白鳥54歳で仮出獄、脱獄に賭けた26年が終わった瞬間だった。
 斎藤の「脱獄王」を中心に脱獄ぶりを振り返ってみよう。明治40年に青森県に生まれた白鳥は25歳の時に強盗殺人を犯している。青森刑務所柳町支所に収容されたが、1936年6月に一回目の脱獄(28歳)。
 無期懲役が確定して青森から宮城、小菅、秋田と移監されたが、1942年、秋田で二回目の脱獄(34歳)。秋田から東京まで逃走し、小菅刑務所に自首。
 小菅刑務所から網走刑務所に移監されたが、1944年、三回目の脱獄(37歳)。2年間、山中の洞くつで暮らす。
 四回目は殺人で逮捕され、札幌刑務所に収容されたが、1947年に脱獄(39歳)した。
 こう見ると「刑務所は何をしてるんだ、バカではないか」と思われがちだが、脱獄のたびに厳しくなる警備体制をかいくぐる手口は感心するしかない。
 一回目は針金で合いかぎを作った。二回目は鎮静房という警戒がさらに厳重な部屋に入れられたが、暴風のなかを脱獄した。関節を外すことができる体質もプラスに働いた。
 秋田を脱獄して東京の小菅刑務所に向かったところに、白鳥の脱獄の目的がうかがえる。脱走3カ月、小菅刑務所時代に世話になった戒護主任なら話を聞いてくれると、秋田刑務所の実情を訴えた。「宮城や小菅では当たり前の懲役囚として扱ってくれた」しかし秋田は「人間以下の扱いだった。(略)“鎮静房”といって、昼間でもほとんど陽が射さない部屋」「そんな部屋に手錠をかけられたまま放り込まれ、一冬過ごしたんだ」。
 白鳥の官選弁護人をしたことのある人は「白鳥君が刑務所を逃げたのは、“脱獄の哲学”…それも純粋に役人に対する反抗心から出ているんだな。それと“人間の作ったものは必ず壊せる”という信念。(略)別の意味では監獄改良を身を以て実践してきたわけだから、それなりに彼の脱獄は意義があったこと」と評価している。
 三回目の網走脱獄は知恵と辛抱がなければ成功しない。ボルトを留めた鉄枠の隙間にみそ汁の塩汁を垂らす。この作業を1カ月、2カ月と繰り返し、腐らせた。四回目の札幌脱獄は死刑判決に対する恐怖感が働いた、と斎藤は見ている。

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