記事応募にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

「ぼくはせめて、小説『火垂るの墓』にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持ちが強く、小説中の清太に、その思いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった」

 独立メディア塾 編集部

 野坂昭如(1930年 10月10日~2015年12月9日)は小説家、歌手、タレント。1967年、終戦直後に、幼い妹を失った体験を書いた「火垂るの墓」で直木賞受賞。1969年2月27日の朝日新聞第二部「舞台再訪 私の小説から」で舞台になった西宮市満池谷(まんちだに)を訪れ、「暗い時代の片想い」という見出しで妹への懺悔の文章を書いた。

 プレーボーイ、エロ事師、闇市派、歌手…

 野坂昭如の代表作「火垂るの墓」で、主人公清太と妹との別れの場面を次のように書いている。

 「八月二十二日昼、貯水池で泳いで壕へもどると、節子は死んでいた。骨と皮にやせ衰え、その前二、三日は声も立てず、大きな蟻が顔にはいのぼても払いおとすこともせず、ただ夜の、蛍の光を眼で追うらしく『上いった下いったあっとまった』低くつぶやき、」
 満員の火葬場に行く。「夜更けに火が燃えつき、骨をひろうにもくらがりで見当つかず、そのまま穴のかたわらに横たわり、周囲はおびただしい蛍のむれ、(略)これやったら節子さびしないやろ、蛍がついてるもんなあ、もうじき蛍もおらんようになるけど、蛍と一緒に天国へいき」
 (半自伝的作品「火垂るの墓」から)

 野坂昭如は1962年の『プレイボーイ入門』で「元祖プレイボーイ」として脚光を浴び、1963年に小説『エロ事師たち』で作家デビューした。
 1967年には、『火垂るの墓』『アメリカひじき』で直木賞受賞。また、社会評論も多数執筆するようになり、「焼跡闇市派」を名乗った。
 1969年にクロード野坂の歌手名でデビュー、「黒の舟唄」などを歌った。
 1972年、編集長を務めていた月刊誌『面白半分』に春本の名作といわれた「四畳半襖の下張」を掲載。「猥褻文書の販売」違反で書類送検され、東京地裁にて有罪判決(罰金刑)を受けた。被告人側は丸谷才一を特別弁護人に、五木寛之、井上ひさし、吉行淳之介、開高健、有吉佐和子ら著名作家を次々と証人申請したが、1980年11月に最高裁は上告を棄却し、有罪が確定した。
 晩年、脳梗塞で倒れ後遺症で筆が持てなくなった。13年間、介護を続けた暘子夫人は野坂が自分の病について一言も語ったことがないことを「腹が立つくらい」と表現する。「『どこか苦しい所はありませんか?胸は?背中はどう?足は?』どこもないと答える。私は全部痛い」。

コメント投稿にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

こちらのコメントを通報しますか?

通報しました