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なぜ人を奴隷にできたのか、過去に目を向ける欧州

在英ジャーナリスト  小林 恭子

 昨年5月末、米ミネソタ州で黒人青年ジョージ・フロイドさんが白人警察官の暴行が原因で命を落とし、これをきっかけに人種差別抗議運動「ブラック・ライブズ・マター」運動が米国内外で拡大した。

 フロイドさん事件は有色人種に対する差別の存在を改めて気づかせたが、欧州各国では19世紀まで続いた奴隷貿易や帝国列強による植民地支配を問題視する動きが大きくなった。

 欧州社会では黒人市民は総人口の中では少数派で、その由来の元をたどると、奴隷貿易や植民地支配に行き着くからだ。

  300年間で1,200万人が奴隷に

 「奴隷貿易」というと、「大西洋奴隷貿易」を指すことが多い。17世紀から19世紀、ポルトガル、スペイン、オランダ、英国などが主としてアフリカ西岸で捕らえた黒人住民を「新大陸」(現在の南北アメリカ、カナダ、オーストラリアなど)や西インド諸島向けに労働力として提供した。

 奴隷貿易のためにアフリカ大陸から連れ去られた人々は、奴隷制度が廃止される19世紀までの300年間で約1,200~1,300万人と言われている(米研究者調べ)。

 足枷を付けられ、密集状態で船に乗せられた黒人住民は、アフリカから新大陸までの長旅を不衛生な環境、脱水症状、赤痢などの疾病と苦しみながら過ごした。輸送された黒人の10~20%が航行中に亡くなった。

 新大陸まで運ばれた黒人たちは、たばこや綿花、砂糖などを生産する大規模農園(「プランテーション」)で過酷な労働環境の下で働かされた。

 一方の西欧諸国は奴隷貿易によって巨額の富を集積し、富裕層をさらに富裕にした。現在の欧州の主要都市のいくつか(例えばロンドン)は、こうした富の集積によってここまで発展したと言われている。

  「黒人男性70ポンド」祖先の記録を発見

 スコットランド在住のジャーナリスト・作家アレックス・レントン氏は、奴隷貿易について「全くと言ってよいほど、知らなかった」という。母方のファーガソン家は、19世紀後半まで、祖先が奴隷を使った砂糖プランテーションをカリブ海のトバゴ島やジャマイカで経営していたにもかかわらず、である。

 レントン氏は、ファーガソン家が代々住んできた、スコットランド北西部の大邸宅に保管されていた古い資料の中にプランテーション経営についての手紙のやり取りや会計記録があることを発見する。

 働いていた人のリストもあった。どの名前にも価格が付いていた。成人の黒人男性は70ポンド、今でいうと乗用車が買える価格に匹敵する。6歳以下の子供たちは8ポンドから25ポンド。馬は一頭で40ポンド、牛二頭は30ポンド。人間の子供たちの価格は動物の価格よりも低かった。

 「読んでいて、吐きそうになった」(レントン氏、タイムズ紙のインタビュー記事、5月3日付)。

 1773年、祖先の一人で20代半ばのジェームズ・ファーガソンは、単身、トバゴ島に向かった。プランテーションを建設するためだ。

 「人間愛と親切心でアフリカ人を使いたい」と在英の兄弟に向けて手紙を書いたジェームズだったが、ある金具のデザインについて兄弟の承認を求めた。この金具は奴隷の肌にあてて烙印を押すために使われた。これで奴隷が自分たちの所有物であることを示せる。

 ジェームズを「良い人間だと思いたい」レントン氏だったが、烙印を押す姿は残酷極まりない行為だった。

 母の助けも借りながら、5年かけて資料を解読し、今年5月、「ブラッド・レガシー(血の遺産:家族の奴隷の物語を考える)」(仮題、未訳)として出版した。

 執筆中のレントン氏の最大の関心事は、祖先がなぜ黒人を奴隷として使うことができたのか、だった。高い教育を受け、博愛精神を持つキリスト教徒の知識層に属した祖先は、いずれも当時の基準でいえば、「強い道徳観を持つ、進歩的な男性たち」であった。それなのに、なぜ?


著者の家族が運営した奴隷プランテーションの歴史を書いた、「ブラッド・レガシー(血の遺産)」。
(出版社キャノンゲートのウェブサイトより)

  その理由を、レントン氏はこう説明する。

 「キリスト教徒としては人間には権利があることを認識しているため、人が人を所有する、ということはあり得ない。そこで、奴隷を持つという行為を正当化するために、黒人を人間ではなく『所有物』として考えたのだ」。

 レントン氏はトバゴ島やジャマイカを訪ね、現地の人に自分はプランテーションの経営者の子孫であることを告げる。「気にするなよ」という人もいれば、「あまり詳しいことを知りたくない」という人もいた。

 19世紀末までに、奴隷廃止運動の高まりを受けて、各国は奴隷貿易・奴隷制度を廃止していく。英国が奴隷貿易と奴隷制度を完全に廃止したのは、1838年。

 プランテーション所有者のファーガソン家は、政府から現在の金額で150万ポンド(約2億2,000万円)の補償金を受け取った。

 本の執筆中にブラック・ライブズ・マター運動が拡大した。レントン氏によると、多くの白人市民は「黒人市民の歴史についてほとんど考えたことなく」、「もういいだろう、21世紀に生きているのだから、次に進んだ方がいい」と言ったという。

 こうした人々は、黒人に対する現在の人種差別が「肌の色が違う人を奴隷として使うことが道徳的に許されると考えた奴隷貿易に由来している、という見方をあっさりと退けてしまう」。

 6月18日に配信されたポッドキャスト番組の中で、レントン氏は「私たちはどうするべきか」を聞かれた。

 「とにかく何が起きたかを知ること。読んで、読んで、読みまくること」が、その答えだった。


真ちゅうの首輪。
1689年。当初は犬の首輪とされたが、現在では人間の首輪と見なされている。
(アムステルダム国立美術館のウェブサイトから)

  オランダの国立美術館で奴隷展

 黒人市民の歴史や奴隷貿易の過去に十分なスポットライトが当たってこなかったのは、英国だけではない。

 5月18日、オランダのウィレム・アレクサンダー国王がアムステルダム国立美術館を訪れた。特別展「奴隷」のオープンニング・イベントである(8月29日が最終日)。同美術館が大西洋奴隷貿易をテーマにした大規模な展示を開催するのは、これが初という。

 オランダは17世紀から19世紀の250年間、植民地を所有していた。奴隷貿易は南米北東部にあるスリナム(旧ギアナ)、ブラジル、カリブ海、南アフリカ、アジアにまで広がった。奴隷貿易で売られた黒人の数は、170万人近い。オランダとその植民地で奴隷制が完全に廃止されるのは1863年だ。

 会場内には奴隷の首輪、プランテーションで使われた道具、奴隷制をテーマにした絵画、そのほかの資料が展示されている。

 資料の1つは、経営者に反旗を翻した奴隷たちを待ち受けていた残酷な運命を垣間見せる。1707年、スリナムにあった砂糖プランテーションにいた奴隷、ウオリーが経営者の命令に従わず、ゆっくりと焼かれる死刑を科された。当時の判事は、ウオリーに「最大限の痛みを最長時間与えるため」、「焼かれている間に赤くなるまで熱したハサミで肉を引きちぎる」よう命じた。

 タコ・ディビッツ館長は展示の目的として「特定の政治姿勢・文化的姿勢を意図してない」と述べている(英ガーディアン紙、5月18日付)。

 国王自身はかつての植民地インドネシアで、植民地支配者によって現地の住民に「過度の暴力が使われた」ことを謝罪している。

 今年7月1日、アムステルダムのハルセマ市長は、植民地時代の奴隷貿易について、市が「積極的に関与していた」と謝罪した。

 オランダ政府はこれまでに植民地時代と奴隷貿易に関して正式には謝罪しておらず、ルッテ首相は奴隷制の歴史に謝罪しないのは「社会の分極化を招く」可能性を挙げている。

 先のガーディアンの記事の中で、ディビッツ館長はこうも述べている。「奴隷制度はオランダの歴史の一部だ。奴隷の子孫だけではなく、私たち全員に関係がある。私にも、あなたにも、国王にも・・今オランダに住む、みんなに関係があることだ」。

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