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「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

 独立メディア塾 編集部

 細川ガラシャ(1563年7月17日~1600年8月25日)の辞世の句・最後の言葉。)

 女性キリシタン

 細川ガラシャは、明智光秀の三女で、細川忠興の正室。戦国時代から安土桃山時代にかけて美女として有名。キリスト教徒(キリシタン)だった。本名は玉子(たまこ)または、たま。父・光秀の主君である織田信長のすすめで、細川藤孝の嫡男・細川忠興に嫁いだ。しかし、光秀が本能寺の変を起こし、主君織田信長を討ったことで、「逆臣の娘」となってしまう。本能寺の変から3カ月後、細川家に嫌疑がかからないよう、また旧織田家の者から細川ガラシャの命が狙われないようにするため、細川忠興は細川ガラシャと離縁し、隔離・幽閉の2年間を過ごした。この別居生活を聞いた秀吉は、ガラシャを許し、細川家へ戻すよう細川忠興に伝えた。
 しかしガラシャは秀吉が「バテレン追放令」を発布したのと同時期に夫に内緒でカトリックに入信した。このとき受けた洗礼名がガラシャである。
 秀吉が死に、1600(慶長5)年には関ヶ原の戦いが起きた。西軍を率いていた石田三成は、家康に与していた武将の家族らを人質に求め、ガラシャの人質も要求してきた。
 死を覚悟したガラシャだったが、キリスト教では自らの命を絶つことは大罪になるため、家老の小笠原秀清に槍で胸を突かせた。慶長5年7月17日(1600年8月25日)、秀清も細川ガラシャの遺体が残らないよう、屋敷に爆薬を仕掛けて火を放ち、他の家臣達と共に自害した。

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