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「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に寄って生き、他の光によって輝く病人のような蒼白い顔の月である。私共は隠されて仕舞った我が太陽を今や取戻さねばならぬ。」

 独立メディア塾 編集部

 平塚明子( 1886年=明治19年2月10日~1971年5月24日)は 日本の思想家、評論家、作家。平塚らいてう(雷鳥)という。1911(明治44)年9月、平塚らを発起人として発行された女性だけの手による文芸雑誌「青鞜」の創刊の言葉。平塚が一晩で書きあげた。「元始、女性は太陽であった」は後の女性運動を象徴する言葉になった。

 「若いツバメ」は平塚の恋人

 平塚は流行語になった「若い燕」の語源にもなった。茅ヶ崎で出会った5歳年下の画家、奥村博史と恋仲に。グループが騒然としたときに奥村が『静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく』と置き手紙を残して去った。らいてうが『青鞜』上で明かした。(「元始、女性は太陽であった―平塚らいてう自伝」から)のちに2人は結婚した。この出来事以来「ツバメ」は「年上の女にかわいがられている若い男」(広辞苑)を指すようになった。

 「青鞜」は青鞜社が1911(明治44)年9月から 1916(大正5)年2月まで52冊発行した女性による婦人月刊誌。18世紀にロンドンでフォーマルな黒い靴下ではなく、深い青い色の長靴下(青鞜)をつけることが教養や知性がある婦人達のグループのシンボルだったことからつけられた。
 創業時の社員や賛助員には、小説家の田村とし子、野上八重子、歌人与謝野晶子、森しげ子(森鷗外の妻)、国木田治子(国木田独歩の妻)らがいた。

土井たか子は「山は動いた」

 創刊号の表紙は、長沼智恵子(高村光太郎の妻で「智恵子抄」で知られる)が描き、巻頭を与謝野の詩が飾った。
与謝野の詩は女性として初めて社会党党首になった土井たか子の議員会館の部屋に飾ってあり、選挙で社会党が躍進したとき、詩を愛唱していた土井は「山は動いた」と言った。詩の冒頭部分は、

「山の動く日」
 山の動く日来る
 かく云へど、人これを信ぜじ。
 山はしばらく眠りしのみ、
 その昔、彼らみな火に燃えて動きしを。
 されど、そは信ぜずともよし、
 人よ、ああ、唯だこれを信ぜよ、
 すべて眠りし女(おなご)、
 今ぞ目覚めて動くなる。

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