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「目の黒いうちに原子力で電気を」

 独立メディア塾 編集部

 日本の「原子力の父」と言われた正力松太郎(1885年=明治18年4月11日 ~ 1969年10月9日)の発言(「日本の原子力―15年のあゆみ」日本原子力産業会議)。
 1954年、米国が南太平洋ビキニ環礁で極秘に水爆実験を行ったことが、読売新聞の特ダネ(3月16日)で明らかになった。第五福竜丸が被爆し、原爆反対運動が盛り上がろうとしていた。同じ時期、日本政府は新たなエネルギー開発を検討していた。原子力の平和利用は反原爆運動を抑える「一石二鳥」の役割をも担わされていた。10月26日は「原子力の日」。

 「日本の原子力―15年のあゆみ」は昭和29年(1954年)3月2日から書き始めている。「突如、飛び出した原子炉予算・3億円」という新聞報道に茅誠司日本学術会議会長らは飛び上がるほど驚いたという。この本に掲載されている毎日新聞(3月4日朝刊)の紙面は「驚く学会、こぞって反対」の大見出しを掲げている。
 この予算獲得の推進者の一人が、まだ若かった中曽根康弘代議士だった。中曾根が予算案を提出した3月3日は、アメリカがビキニで水爆実験をしたわずか2日後のことだった。「巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀」(佐野眞一)は、中曾根がアメリカからひそかに実験を知らされた上で、原子力予算をぶつけてきたのではないか、読売のスクープ後だったら予算案は上程すらできなかったはずだ、と指摘している。

 原子力委員会は1956年に発足した。当時、中曽根と同様、原子力の実用化を説いていたのが正力だった。鳩山首相に防衛庁長官としての入閣を求められたが、「原子力をやりたい」と答え、初代原子力委員長に就任した。そのとき鳩山は「原子力って何だい」とききかえしたという。
 「原子力の日」は1956年10月26日に日本が国連の専門機関、国際原子力機関(IAEA)へ参加したことと、1963年10月26日に茨城県東海村の日本原子力研究所の動力試験炉が日本で初めての発電に成功したことから閣議決定された。

 正力は警視庁出身。読売新聞社社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、読売テレビ会長などを歴任。また、読売ジャイアンツ創立者であり初代オーナーだった。日本におけるテレビ導入、プロ野球の発展に尽くしたことからプロ野球の父、テレビ放送の父などとも呼ばれた。
 A級戦犯として巣鴨プリズンで1年余を送り、出獄後、正力がアメリカ中央情報局(CIA)の工作に協力していたと、米国の外交文書に記載されていることが分かった。

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