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「ゴジラはレンブラントを見る思い」

 独立メディア塾 編集部

 1954年11月3日、東宝映画「ゴジラ」が公開された。監督は本多猪四郎(1911年5月7日~ 1993年2月28日)、特殊撮影が円谷英二(1901年7月7日~ 1970年1月25日)。表題の言葉は「銀幕に愛をこめて 僕はゴジラの同期生」(宝田明著)から。ゴジラは体長50メートル、体重2万トンの怪獣。水爆で眠りから目を覚ました。

 監督の本多は1936年に満州に出兵、結婚して間もない1939年12月に2度目の召集令状。1944年、3度目の召集令状。1946年5月に帰国した。
 本多の夫人、本多きみの著書「ゴジラのトランク 夫・本多猪四郎の愛情、黒澤明の友情」によると、3度の戦争体験が「ゴジラ」に深くかかわっている。同書の中の本多本人の回想。
 「船で天津から門司へ、それからまた汽車で東京にたどり着いた。忘れられないのはね。途中、汽車が広島を通過したときのことだよ。街には色がないんだ。墨絵のようなんだ。一緒に乗っていた人が“あと72年間はなにも生えないそうだ”って教えてくれた。俺は何のために戦っていたんだろう」「それまでは、無事に帰ってきたという安堵感でいっぱいだったのに。あんな気持ち、初めてだったなぁ」
 ゴジラは谷口千吉監督が予定していたインドネシアとの合作映画「海底二万哩から来た大怪獣」が中止になり、その代替え作品として考えられた、という。しかし谷口が「俺は人間しか撮らない。そんなゲテモノは撮れない」と断ったため、本多に回ってきた。
 本多の誠実な人柄は「本多木目守(ほんだ・もくめのかみ)」というあだ名が物語っている。大道具が塗料を塗って誤魔化した柱や羽目板に、丁寧に木目を描いて磨いていたという。(黒沢明「蝦蟇の油」から)

 公開直前に「第五福竜丸事件」

本多は怪獣について考えた。「水爆実験がモチーフだといわれて広島を思い出した。人間が地球に対して犯してしまった罪はどういう結果をもたらすのか。被爆地をこの目で見たものとして伝えられることがあるはずだ」と。
円谷は戦争物などを扱う特殊撮影で第一人者だったが、戦時中に航空兵の教育映画を造ったりしたため、戦後は一時、公職を追放された。ゴジラは円谷がいなかったら成立しなかった、と本多は語っている。(「グッドモーニング、ゴジラ」樋口尚文著)

 全国で封切られる前の1954年3月1日、日本の漁船第五福竜丸が、ビキニ環礁で行ったアメリカの水素爆弾実験で「死の灰」を浴びた。
 デビュー3作目でゴジラに出演した宝田明(1934年4月29日~)も満州体験者だった。宝田は「3度目の核被害を受けた日本人が世界に向けて核の恐怖を発信すべきものとの考えで『ゴジラ』を登場させて、人間に復讐するということをやった」と「ゴジラ」と「第五福竜丸事件」が密接につながっていた、と受け止めた(「銀幕に愛をこめて 僕はゴジラの同期生」)。
 宝田は後年、シカゴの美術館などでレンブラントの絵の前に立つと「金縛りにあった」という。「光と影の画家」レンブラントの絵は「ゴジラ」のモノクロ画面を見る思いだったと述懐している。本多が広島を見て感じた「色がない」と同じ世界だ。
 「グッドモーニング、ゴジラ」の樋口はゴジラに「反戦思想の主張」などと言うのは「笑止な話」としつつ「日本で初めて特撮が中心化された映画」であり「善し悪しはともかく日本映画の分岐点に立つマイルストーン(大きな節目、経過点)であるにちがいない」と評している。
 この反核映画は米国に受け入れられた。「ゴジラとは何か」(ピーター・ミュソッフ著)は「恐怖と敵意が予想もできない形態をとるこの時代に、ゴジラはアメリカ人に肯定的な結果をもたらした核競争を象徴していた。だから、ゴジラの存在はアメリカ人を安心させるのだ」。
 東宝映画のゴジラは「シン・ゴジラ」を含め29本。本多の監督作品は第15作「メカゴジラの逆襲」(1975年)が最後になった。

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