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「かく迄(まで)も心合ふことのあやしさよ」

 独立メディア塾 編集部

 近代文学初の女流作家、樋口一葉(1872年5月2日=明治5年3月25日~ 1896年 11月23日)が半井桃水あてに手紙を出した日の日記。桃水は新聞記者、小説家。佐伯順子編「一葉語録」の「につ記(明治35年2月3,4日)」から。

 一葉は作家を目指して東京朝日新聞の桃水に師事したが、次第に2人の関係が噂されるようになった。冒頭の言葉は一葉が桃水に「明日行く」という手紙を出したところ、桃水からも入れ違いのように「あすお目にかかりたい」という葉書が来た。一葉はそれを「心合ふ」と表現した。桃水を訪ねた翌日、雪になり、桃水は「泊って行け」という。しかし一葉は「頭をふりて」断っただけでなく、帰途、「雪の日」という小説のアイディアまで浮かんだことを書いている。
 佐伯氏は一葉は「切ないほど潔癖な娘であった」と解説している。実際に一葉は「雪の日」という小説を明治26年3月に書いた。

 社会の底辺を描く奇跡の14か月

 一葉は日清戦争などで日本国中が戦争熱に浮かされていたころ、貧しい生活の中で社会の底辺を描き続けた。槐一夫(えんじゅ・かずお)氏の「つっぱってしたたかに生きた樋口一葉」によると、一葉の死後間もなく、「青鞜」の平塚らいてうは一葉を「過去の女」と呼んだ。しかし第二次大戦後、平塚は一葉の碑の建立に尽力し、一葉の評価を「新しい女」に変えた、と指摘している。
 「すべてが負にみえる彼女の生涯を、彼女はその不滅の光芒を放つ作品、それもわずか、二、三の短い小説によって勝に逆転させてしまった」と言い切るのは瀬戸内寂聴だ。「私の樋口一葉」で次のように書く。
 「『青鞜』の女たちが、自分の周囲をとりまく因習の壁を打ち破ろうとし、家族制度の重圧や女性の地位の低さなどに歯がみしながら、自分の才能の開花をめざして闘っていった源には、一葉が残した文学的成果と名声の栄光が一つのモニュメントとしてそびえていた」
 モニュメントとは、瀬戸内の表現を借りると「本来、我が国の小説は女の手によって成り、女の手によって文学的遺産が残されていた。道綱の母、紫式部、清少納言、和泉式部等々の、(略)平安以後千年近くも、女のその力が眠らされていたこと自体が不思議な出来事だったのである。一葉が出て、はじめて、遠い王朝の女流たちの文才の余脈が近代によみがえった」ことだ。
 また田中優子は著書「樋口一葉『いやだ!』と云ふ」で、「にごりえ」について「二つの離れ業」をやってのけた、という。一つは江戸文学の方法を使いながら、全く別のものを作り上げたこと。もう一つは特殊な「酩酒屋の女」を主人公にしながら普遍的な女性像を作り上げたことだ。

 一葉の家に集まる著名な文人たち

 1896年、『たけくらべ』を発表すると、森鴎外は「まことの詩人」と熱賛した。彼女の家には、上田敏、島崎藤村、斎藤緑雨、泉鏡花、幸田露伴ら様々な文人が集う文学サロンのようになった、という。

 代表作「大つもごり」(94年)、「たけくらべ」(95年)、「にごりえ」(同年)、「十三夜」(同)を14か月で書きあげ、96年11月23日、24歳という若さで夭折する。あまりに早い死だったが、2年にまたがる、この期間は「奇跡の14か月」として文壇史に輝いている。

 一葉の肖像は2004年11月1日から新渡戸稲造に代わり日本銀行券の5000円券に新デザインとして採用された。女性としては神功皇后以来の採用だ。写真をもとにした女性の肖像が日本の紙幣に採用されたのは一葉が最初である。
 葬儀に参列したのは親戚・知人を合わせて十有余名だった、という。

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