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「老いらくの 恋は怖(おそ)るる何ものもなし」

 独立メディア塾 編集部

 歌人であり、実業家だった川田順(1882年=明治15年1月15日~1966年1月22日)は、人妻だった歌人の鈴鹿俊子(1909年9月18日~2008年2月20日)を弟子にしたが、やがて不倫の関係になった。鈴鹿は大学教授夫人、3人の子供がいた。悩んだ川田は1948年11月30日、家出をし、亡妻の墓の前で自殺を図った。このとき川田が詠んだ歌が「墓場に近き、老いらくの 恋は怖るる何ものもなし」(全文は以下に)。ここから「老いらくの恋」が流行語になり、11月30日が「シルバーラブの日」と呼ばれるようになった。2人はその後、結婚した。

 川田の父親は宮中顧問官の文学博士。東京帝国大教授、貴族院議員などを歴任した。川田は1939年、和子夫人を亡くし、知人である元京都帝国大学教授・中川与之助の夫人、鈴鹿俊子に歌の指導をするうち、恋仲に発展した。中川夫妻は1948年に離婚。川田は自責の念に苛まれ、同年11月30日に家出、亡妻の墓前で自殺を図った。
 家出の際に谷崎潤一郎たち友人に遺書を送り、「恋の重荷」というタイトルの長詩を「週刊朝日」に送ったことから、世間に知られることになり、“老いらくの恋”として騒がれた。

 「女以外、自伝の対象になるものなし」

 川田の自叙伝「葵の女」によると、兄弟姉妹は7人。姉綾子は巌谷小波の愛を振り切って日銀総裁の三男と結婚した。巌谷は作家であり児童文学者。尾崎紅葉はこの話をもとに「金色夜叉」を書いたとという。
 「葵の女」は自叙伝ではあるが、上流社会の女性遍歴の記録でもある。本人も十分自覚していて「女以外に自伝の対象となるものは無いことになる。この小著に現れた女性は五十余人にのぼるけれども、恋愛の名に値する関係者のものは五本の指を屈するほどもない」と様々な女性と浮名を流したことを記している。
 同書に「老いらくの恋」が掲載されている。
 「若き日の恋は、はにかみて おもて赤らめ、壮子時(おさかり)の 四十歳(よそじ)の恋は、世の中に かれこれ心配(くば)れども 墓場に近き、老いらくの 恋は怖るる何ものもなし。」(川田順)

 ネットによると、俊子の返歌は
 「命こめて作らむものを歌に寄せし この吾心きみによりゆく」

 俊子は随筆「死と愛と」で次のように書いている。
 「私は男の人を深い交渉で知っているのは、川田と以前の夫の二人しかいない。世間からどうみられているかわからないが、私は真面目な真実の人生を歩きたいと思う」

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