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「I’m dreaming of a white Christmas」(ホワイト・クリスマス)

 独立メディア塾 編集部

 ビング・クロスビー(1903年5月3日~1977年10月14日)はアメリカの歌手、俳優。ウィキペディアによると、1930年から1954年まで、70本以上の長編映画を制作し、1,600曲以上を録音した。
 代表曲の一つ「ホワイト・クリスマス」を最初に発表したのがクロスビー。1941年のクリスマスのラジオ番組でこの曲を歌ったが、その際の音源は残っていないという。世界的なヒットとなり、現在も歌われ続けている。作詞・作曲はアーヴィング・バーリン(1888年5月11日~1989年9月22日)。ベラルーシ生まれのアメリカの作曲家、作詞家。「ゴッド・ブレス・アメリカ」の作詞、作曲でも知られる。(ウィキペディア、夏坂健著「王者のゴルフ」から)

 「ハンディキャップは『黒人』てことさ」

 「ホワイト・クリスマス」は第二次世界大戦中の1942年に発売され、リメイク版を含めて全世界で4千500万枚を超える大ヒットになった。発売以降ビルボードで14週間1位を記録した。クロスビーは他にも「サイレントナイト」など多くのクリスマスソングを歌っており、「クリスマスソングの王様」とも呼ばれた。
 歌手として評価が確立するとともに映画でも活躍した。1944年の「我が道を往く」でアカデミー主演男優賞を受賞した。
 クロスビーは大のゴルフ好きで、全英オープンに出場したほどの腕前だった。ペブルビーチで行われるプロ・アマ・ミックストーナメントの主催者でもあった。
 1999年発行の「王者のゴルフ」によると、この大会に招待されるアマの顔ぶれも多士済々で、ショーン・コネリー(ハンディキャップ12)、クリント・イーストウッド(10)、ミック・ジャガー(10)らが参加し、多くのファンが押し掛けたという。
 フランクシナトラ一家も常連で、歌手のサミー・デイビス・ジュニアは「あなたのハンディキャップは?」と聞かれて「そりゃ、黒人てことさ」と答えたという。ゴルフ場は女性差別を含めて差別が遅くまで残っていた場所でもある。
 クロスビーは1977年、スペインでプレー中、得意のバンカーショットを打った後に心臓まひで死亡した。彼の死後、『ビング・クロスビー・プロアマ』は名称を変え、『AT&Tペブルビーチナショナルプロアマ』となって現在も開催されている。

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