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「苦しいから注射をしてくれ、死ぬと困るから」

 独立メディア塾 編集部

 夏目漱石(1867年2月9日~ 1916年12月9日)の言葉。
 朝日新聞は12月10日に夏目漱石の死亡記事を載せた。「本社記者夏目漱石氏は(略)最後の食塩注射を行いたるも遂に恢復するに至らず、夫人きよ子令息令嬢を初め(略)知己及門下生等四十余名に打ち囲まれつつ六時五十分遂に逝去せり」。(「朝日新聞100年の記事にみる追悼錄上」、「別冊新評作家の死」から)

 「胸と頭に水を」

 「文豪の最期」という見出しがついた朝日新聞の記事には、漱石の弟子である真鍋嘉一郎博士が漱石の最期を語っている。
 「水と葡萄(ぶどう)をくれ」と言って胸の苦痛を訴え、「早く胸と頭を冷やせ」と促された。夕方5時半か6時ごろになって「苦しいから注射をしてくれ、死ぬと困るから」といった。真鍋はこの言葉を聞いて「先生はこの時まで死を覚悟していなかったようだ」と話している。
 苦痛が増してくると「胸と頭に水をぶっかけてくれ」と言われ、看護婦が水を含んで顔に吹きかけると、「先生は物静かに『ありがたい』と一口言われた。これが先生の最期の言葉だった」。
 「死ぬと困るから」という言葉を巡って文壇で議論になった。
 巌谷大四「物語大正文壇史」によると、口火を切ったのは正宗白鳥だ。「読売新聞」で漱石を批判した。白鳥は読売新聞の記者をやめてから「何処へ」などの小説を書き、文芸評論家でもあった。「いかにも『さとり』をひらいたように見えた漱石も、いよいよ死に直面すると、死にたくない人間の本性に動かされて、ついあんなことを言ってしまった。人間にとって『さとり』などというものは生きているあいだの気休めで、いざとなると、大して役に立つものではない」と漱石批判を展開した。
 これに怒ったのが文芸評論家で漱石研究家の荒正人。中野重治や加藤周一と論争を繰り広げたことでも知られる評論家だが、「別冊新評作家の死」で白鳥にかみついた。「正宗白鳥は漱石が晩年には則天去私などと覚ったようなことを言いながら、死ぬ間際には、凡人と全く変わりない言葉を口にしたと非難めいたことを言ったので、急に名高くなった」と売名行為を批判。「この言葉のどこが悪いか、聞いてみたい」と白鳥に詰問した。
 漱石の言葉には様々な解釈がなされた。第一は執筆中の「明暗」が未完で終わってしまうのが困る、という説だ。漱石は糖尿病、胃潰瘍などいくつかの病気に苦しんでいたが、大正5年5月から朝日新聞で「明暗」の連載を始めていた。「人間臨終図鑑上」(山田風太郎著)によると、8月21日に芥川龍之介と久米正雄宛ての書簡で「僕は相変わらず『明暗』を午前中書いています。心持は苦痛、快楽、器械的、この三つをかねています」と伝えている。
 山田は「死ぬと困るから」が漱石にあるまじき言葉として問題になったことについて39歳の妻鏡子と17歳の長女筆子を頭に幼い子供が6人もあったことを挙げて「凡人並みに家族を愛してのものであったと解釈しても、充分同情できると」としている。

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