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「野の鳥は野に」

 独立メディア塾 編集部

 中西悟堂(1895年=明治28年11月16日~1984年12月11日)は、日本の野鳥研究家。日本野鳥の会の創立者。歌人・詩人。
 「野の鳥は野に」を標語に自然環境の中で鳥を観察し保護する運動を起こした。「野鳥」や「探鳥」は悟堂の造語という。
 (「定本野鳥記全8巻」、「野鳥開眼―真実の鞭」、小林照幸著「野の鳥は野に 評伝・中西悟堂」などから)

 野鳥の会は1934年3月11日に発足した。悟堂38歳。当時の会誌「野鳥」には賛助員として北原白秋、窪田空穂、新村出、杉村楚人冠、柳田国男らそうそうたるメンバーが名を連ねている。家の中や庭で「放し飼い」をしていたこともある悟堂に、鳥に対するある信念が生まれていた。
 「鳥たちを自然のままで守ることは、とりもなおさず日本の山河を守ることでもある。鳥は野にあるべき。野の鳥は野に。鳥とは野鳥であるべし」。
 会長に就任後は政治闘争に明け暮れた、という。「鳥類保護のための闘争私史」(定本野鳥記⑧)によると、執拗にカスミ網を復活させようとする政治家や猟友会との闘い、空気銃の氾濫を阻止するための闘い、鳥獣保護法案の立法化へへ向けた闘いなど様々な敵がいた。
 カスミ網一つとってみても、カスミ網で鳥を捕まえることを禁止する法律は、昭和22年にすでに制定されていた。ただし許されていたのは学術上の渡り鳥調査と農作物を荒らす害鳥の駆除だけだったが、ツグミは「松茸と並ぶ秋の味覚」として密漁は続けられ、政治家などからは解禁の要請が続いていた。

 そして最後の闘いの相手は、自身が作った「日本野鳥の会」になってしまった。
 悟堂は日本野鳥の会創立以来の会長だったが、80年に退任した。事務方との考え方の違いが大きくなり、人事にまで影響、混乱が出始めたことなどが理由だった。
 日本の自然保護運動の様相が大きく変わった、という背景があっただろう。大手ゼネコン、原発メーカー、デベロッパー(開発業者)などが保護団体へ援助の形で影響力を増していた。
 悟堂の死後9年が経た1993年、自叙伝「中西悟堂野鳥開眼―真実の鞭」が刊行された。その中で、悟堂は激しい言葉で野鳥の会を批判している。
 「先般、野鳥の会に起こった騒動は、会四十五年の歴史に汚点を付けた事件であった。が、それだけでなく、肝腎の私が会を横取りされて自分の方から脱会したという、ぶざまな事件であった」。
 悟堂のいない野鳥の会は一般人には衝撃だっただろう。会長辞任の翌年、復帰を求める声に応じて悟堂は野鳥の会名誉会長を「不承ながら受ける」ことになった。(「野鳥開眼―真実の鞭」から)

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