記事応募にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

「俺だってヌーベルバーグだった」

 独立メディア塾 編集部

 日本を代表する映画監督、小津安二郎(1903年12月12日~1963年12月12日)は、サイレント映画時代からモノカラ―の時代を経て戦後までの約35年にわたり、日本の映画界をリードした。原節子主演の『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)など54本の作品を監督した。「小津調」と呼ばれる独特の映像世界は国際的に評価されている。

 「僕はトウフ屋だからトウフしか作らない」

 小津安二郎は親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続け、黒澤明や溝口健二と並んで国際映画界の評価を得た。1962年には映画人初の日本芸術院会員に選出された。
 1950年代、フランスで始まった映画の「ヌーベルバーグ」が日本映画界でも大島渚、篠田正浩、吉田喜重らを中心に盛り上がった。小津はすでに巨匠であり、ヌーベルバーグの標的となる存在だったが、「俺だって若いころはヌーベルバーグだった」といった。(田中真澄著「小津ありき 知られざる小津安二郎」)。
 「原(節子)は大根だという御本人には気の毒なうわさが伝わっていた。(略)この人は、大きな喜怒哀楽を大げさな表情では出せないかわり、チラリとした動きで立派に表現するというタイプの人なのである」「『達者だ』という評判の俳優を使ってみると、どうもやることが何から何まで説明的で困った場合もある」(小津安二郎著「ボクはトウフ屋だからトウフしか作らない」から)
 小津の妹、山下登久は小津と原の結婚が噂されたことについて次のように言っている。
 「おそらく兄は、原さんのことが好きだったと思います。ただ、兄は仕事と私生活を切り離して考えようとしていました。あれだけの大女優を個人で所有するものではないと割り切ろうとしていたんじゃないでしょうか」「結婚すれば、もう少し見方が変わるんじゃないの、というと『それじゃあ、泥棒にならなければ泥棒の役はできないのか』と怒られました」(文芸春秋「輝ける53人 最後の時 レクイエム昭和」)

コメント投稿にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

こちらのコメントを通報しますか?

通報しました