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「一年半、もし短と言わんとせば、十年も短なり、百年も短なり」

 独立メディア塾 編集部

 「東洋自由新聞」主筆の中江兆民(1847年12月8日~1901年12月13日 )は1901年(明治34年)に喉頭がんを宣告された。医者に余命一年半と言われ、のどの切開手術を受けた後、枕を抱いてうつぶせの姿勢のまま随筆論集「一年有半」を書きベストセラーになった。
 1881年西園寺公望(さいおんじ・きんもち)らと「東洋自由新聞」を創刊し、主筆として自由民権運動の指導者になった。フランスの啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーの社会契約・人民主権論を日本に紹介し東洋のルソーと評された。代表作に「三酔人経綸問答」など。(「人間臨終図鑑上=山田風太郎著」などから)

 「政治と哲学と義太夫を一緒に語るという芸当」は中江にしかできない、と松岡正剛に言わせた中江だが、医者に余命を告げられた後、冒頭の言葉に続けて「嗚呼いわゆる一年半も無なり、五十年百年も無なり、すなわちわれらは、虚無海上の一虚舟(うつろぶね)」と書いた。
 現実は一年半も経たずに8か月後に死を迎えた。中江の遺言により宗教的儀式を排除した「告別式」という形で行われた。これが日本での「告別式」の始まりという。(「人間図鑑」)

 解剖の様子が記事に

 死因について朝日新聞の「死後の兆民居士」という記事によると、喉頭がんではなかった。遺言に従って中江は解剖された。驚くことに解剖の様子が記事になっている。「下顎より腹部まで一刀のもとに切解し…」「咽喉を開き舌根より咽喉の期間全部を抉出(けっしゅつ)して患部すなわち癌腫のあるところを…」。(昔の新聞はこんなことまで書いていた!)
 その結果、死因は食道がんで、それが喉頭を圧迫していた、と分かった(フリー百科事典「ウィキペディア』によれば死因は喉頭がん)。中江の脳の模型が博物館などに配られたという。(「朝日新聞100年の記事にみる 追悼錄」)
 中江は871年(明治4年)、廃藩置県によって土佐藩の身分制から開放され、明治政府が派遣した岩倉使節団に採用された。アメリカと第三共和政時代のフランスへ渡り、西欧の近代民主主義思想を日本に伝え、自由民権運動に理論的な影響を与えた。自由民権運動のために東京を追放されたが、大日本帝国憲法の発布で恩赦になった。

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