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「うるさい奴を集めよう」

 独立メディア塾 編集部

 「喜劇の王様」チャーリー・チャップリン(1889年4月16日~1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー。
 米国を追放されて20年。チャップリンは1972年、米国から第44回アカデミー賞で「映画の製作における計り知れない功績」により名誉賞を受賞した。監督としても優れていた。表題の言葉は「伯爵夫人」を監督したときの俳優の起用についての言葉。
 (デイヴィッド・ロビンソン著「チャップリン上・下」、同氏著「チャップリンの愛した女たち」、岩崎昶著「チャーリー・チャップリン」、淀川長治著「私のチャップリン」「チャップリンのすべて」、土橋章宏著「チャップリン暗殺指令」、吉村英夫著「ハリウッド『赤狩り』との闘い」などから)

 赤狩りで米国から追放

 チャップリンは『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)、『モダン・タイムス』(1936年)などを発表した。『独裁者』(1940年)はトーキーに移行した作品だ。ヒトラーを風刺したこの作品はチャップリンのヒトラーに対する「ワンマン・ウォー(一人戦争)」だった、と映画評論家の岩崎昶(あきら)は振り返っている。
 しかし「モダン・タイムス」でチャップリンは共産主義者を疑われた。資本家に反対し、労働者に味方する場面が批判された。『殺人狂時代』でついに「赤狩り」の対象にされた。
 新作の『ライムライト』は監督、原作、脚本、作曲、主演すべてがチャップリンという自信作だった。英国でのプレミア試写会のため、チャップリンは1952年9月18日、「クイーン・エリザベス」号に家族とともに乗船し、ロンドンへ出航した。その翌日、トルーマン大統領の米国政府は、チャップリンの再入国許可を取り消した。
 それ以後は亡くなるまでスイスに定住したが、1972年「アメリカの償い」としてアカデミー名誉賞が決まった。
 冒頭の言葉は1966年の「伯爵夫人」で、使いこなすのが難しいといわれていたマーロン・ブランドと美人のソフィア・ローレンを「僕ならうまく使ってやる」といって起用したときのもの。監督としての才能の評価も高い。
 チャップリンは「無声映画は全世界に通じる」と言ってサイレント映画を貫いてきた。「男はつらいよ」の山田洋次監督は、チャップリンへの弔辞ともいえる文章で、守り続けたサイレントスタイルを破り初めて声を出した「独裁者」の言葉を引用している。
 「輝かしい未来が君にも私にもやってくる。我々すべてに!」
(1977年12月26日朝日新聞夕刊)

チャップリンは日本ファンと言われ、1932年5月に初来日した。神戸港で数万人の人々に出迎えられ、東京駅では4万人もの群衆が押し寄せたという。5月15日、首相官邸での歓迎会に出席する予定だったが、突然、相撲が見たくなって予定を変更、両国国技館へ出かけた。その夕方、犬養は首相官邸で暗殺された。チャップリンも暗殺の標的だったといわれる「5・15事件」だ。

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