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「悩みを突き抜けて歓喜に到れ!」

 独立メディア塾 編集部

 ルドウィッヒ・ファン・ベートーヴェン(1770年12月16日頃~1827年3月26日)の交響曲「第九」を象徴する言葉。「第九」の合唱部分はフリードリッヒ・フォン・シラーの詩「歓喜に寄せて」をもとに作られているが、冒頭だけベートーヴェンの作詞。長い間、シラーの詩の作曲に取り組んできたべートーヴェンは1815年10月19日、親しくしていたエルデーディー伯夫人に「悩みを突き抜けて歓喜に至れ」という言葉を贈った。

 「青年が歓喜に寄すに曲をつけようとしている」

 シラーの「歓喜に寄せて」は1786年に発表され、若い知識人を熱狂させた。ベートーヴェンが親しくしていた大学教授にシラーのファンがいた。教授はシラー夫人にあてて次のような手紙を書いた。1793年のことだ。
 「当地ボンに将来を有望視されている青年作曲家がいます。(略)彼はシラーの『歓喜に寄す』に曲をつけようとしています」(「名曲ものがたり」志鳥栄八郎著から)
 その時、青年作曲家であるベートーヴェンは23歳。「第九」の初演は、それから30年が過ぎた1824年5月7日、ウィーンで。ベートーヴェンは54歳になっていた。
 尊敬するシラーの詩の音楽化に挑戦してから、30年余もかかった新作を、聴衆は熱狂的な拍手で迎えた。拍手は鳴りやまず、ベートーヴェンは5回もステージに呼び戻されたという。しかし、残念ながら、ベートーヴェンに拍手は聞こえていなかった。

 戦争と歩んだ「第九」

 「第九」はなぜ大晦日に演奏されるのか。「第九 歓喜のカンタービレ(桜井知子企画・編集)」によると、1940年、日本全国で「紀元2600年祝賀行事」が行われ、12月31日に午後10時30分から「第九」が放送された。もともと大晦日の夜の演奏は欧州各地で、歓喜の歌とともに新年を迎えるのが習慣で、それにならった、と言われる。一方、欧州にはそうした習慣はなく、日本独自の習慣という意見もある。日本では2600年の祝賀行事以降、毎年、大晦日に続ける予定だったが、41年12月の真珠湾攻撃の結果、長時間の洋楽番組は認められなくなった。
 その中で戦時中の43年11月28日、例外的に放送されたことがあった。3日後に控えた学徒出陣の壮行のためだった。
 「第九」は、ナチスドイツによって戦意高揚などに使われ、もっとも悪用されたクラシック曲、といわれている。(「交響曲『第九』の秘密」マンフレッド・クラメス著、「第九 歓喜のカンタービレ」などによる)。

 1933年、バイロイト音楽祭でナチ党要人の前で演奏(バイロイトはナチの聖地化していた)
 1936年、ユダヤ人を排除したベルリン五輪では体操選手たちが「第九」に合わせて踊った。
 1937年、ヒトラーの誕生祝にゲッベルスが演奏をプレゼント

 日本での初の演奏は1918年6月1日、徳島県板東町(現在の鳴門市)でドイツ人捕虜による「第九」が定説になっている。
 CD初期に最大収録時間(74分42秒)が決まったいきさつについて、常に語られる説がある。ウィキペディアによると、約60分を主張するメーカーのフィリップスに対し、開発元のソニーの副社長だった声楽家、大賀典雄が「オペラ一幕分、あるいはベートーヴェンの第九が収まる収録時間」(74分)を主張した。
大賀と親交のあったカラヤンは、「第九」案に賛成し、その結果、フルトヴェングラー指揮の「バイロイトの第九」(演奏時間およそ74分32秒)などの演奏も、コンパクトディスク1枚に収めることが可能になった、という。

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