記事応募にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

「あけましてお目出とう。今年もまたいい1年を暮らしましょうね」

 独立メディア塾 編集部

 宮本百合子(1899年=明治32年2月13日 ~1951年1月21日)は小説家、評論家。18歳で『貧しき人々の群』を発表し注目された。日本共産党に入党し、宮本顕治(1908年10月7日~2007年7月18日)と結婚した。再三検挙されたが、日本の左翼文学・民主主義文学、近代女流文学を代表する作家の一人だった。表題の言葉は獄中の顕治あてに書いた手紙(1939年1月1日)から。二人の往復書簡は顕治の獄中生活の間、10年以上にわたり続いた。
 二人の書簡集は「十二年の手紙」2巻にまとめられている。百合子自身もたびたび検挙され、その後も検挙や執筆禁止などを繰り返し経験した。1934年12月から1945年10月10日、顕治が網走刑務所から解放されるまでの間、百合子は1000余通、顕治は400通の手紙を書いた。顕治は1933年に検挙され、留置所生活を送っている。その1年を加えての「12年」だ。
 顕治は、共産主義者、文芸評論家。戦前の非合法政党時代からの活動家で、戦後、1958年に日本共産党の書記長に就任してから40年間、党を指導した。
 百合子の手紙には獄中あてとは思えない落ち着きがある。1938年3月20日、百合子から顕治への手紙。
 「今夜は何という春めいた晩でしょう」と書き始め、続けて音楽会に行ったことを書いている。「昨夜は新響の定期演奏会でマーラーの第三交響楽でした。(略)独唱の歌詞はニーチェの詩ですが、音楽でも神秘臭いものを本当に幽玄にはなかなかやれないものね」。
 第二次大戦が終わりを迎えようとしていた1945年の正月になると「明けましておめでとう。爆竹入りの越年でしたが、余り近い所へ、落ちもせず、静かな元日でした」と空襲について書いている。(1月2日)
 顕治も百合子が盲腸を手術した際の気遣いや本の差し入れなどを書いたりしている。1945年10月10日、網走刑務所の顕治は百合子宛に「九ヒデ タソチラへカエルケンジ」と電報を打った。顕治は戦争が終わってやっと解放された。

コメント投稿にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

こちらのコメントを通報しますか?

通報しました