記事応募にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

「わたしは、順風をはらんだ帆を、みずからおろしてしまいました。正確にいうなら、年齢四十八歳を迎えた昭和十九年(1944年)正月二日です」

 独立メディア塾 編集部

 弁護士正木ひろし( 1896年=明治29年9月29日~1975年12月6日)は「首なし事件」「八海事件」「チャタレー事件」など終戦直後の冤罪事件、難事件を多数手掛けた。同時に戦時中も反戦を唱える個人雑誌「近きより」を発行し続けた。表題の言葉は恵まれた弁護士生活を変えた「首なし事件」の書き出し。

 墓から掘り起こした首が証拠

 弁護士正木ひろしは1944年、茨城県の炭鉱の現場主任が、地元の警察に留置され、そのまま脳溢血で死んだ事件の調査を頼まれた。警察の拷問による死ではないかと疑った正木は、土葬されていた被害者の首を切り取って東大の法医学の権威、古畑種基教授に持ち込んだ。「首なし事件」と呼ばれ、終戦を挟んで12年にわたる長期の裁判になった。1955年、警察官の有罪が確定した。タブーだった「官」の拷問を暴いた事件として歴史に残ることになった。
 正木弁護士は「首なし事件」だけでなく「八海事件」「チャタレー事件」など多くの難事件を手掛けた。1937年(昭和12年)には個人雑誌「近きより」を発刊し、日本の政治体制を嘆いたが発禁処分を受けながら1949年まで発刊を続けた。
 「首なし事件」で次のような言葉を残している。
 「思えば私は、第一回の公判(昭和19年9月14日)に列席するまで、日本の裁判所は、天皇の名にかけて、少なくともマジメに行われるものと信じていた。ところが、かならずしもそうでないことを発見した。(略)検事は弁護側と共同戦線を張って、大槻(拷問の被害者)の病死説を主張した。裁判長は裁判長で被告人に、いろいろと言いのがれの言葉を教えながら尋問した。傍聴席はほとんど警察関係者でかため、非公開裁判の観を呈した」。

コメント投稿にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

こちらのコメントを通報しますか?

通報しました