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「私は歌う、私は戦う、私は泣く、私は祈る、私は笑う、私は働きそして私は不思議に思う」

 独立メディア塾 編集部

 ジョーン・バエズ(1941年1月9日~)は米国のシンガーソングライター。フォークロックの草創期から、今も第一線で活動し続けている。1960年10月、ファースト・アルバム『ジョーン・バエズ』を発売。「ドナドナ」「朝日のあたる家」などをバエズ自身がギター演奏した。2017年「ロックの殿堂」入り。表題の言葉は「ジョーン・バエズ自伝 We Shall Overcome」の中で紹介されているコンサート用パンフレットの一部。

 ベトナム戦争が深刻化する中で、バエズは「We Shall Overcome」(われらに勝利を)などのプロテストソングを歌った。歌だけでなく行動でも反戦を訴えた。
 1972年の12月16日~30日まで、ベトナムの対米国人民連帯委員会の招きでバエズを含む牧師など4名がハノイを訪問した。ベトナム戦争は終了しておらず、2週間の滞在中、ファントムやB-52による攻撃や爆撃が行われた。

 バエズの若いころ、「ウッドストック音楽祭(the Woodstock Music Festival)」は平和と愛とロックンロールを掲げた音楽祭だった。3日間にわたってヒッピーや若者ら約40万人が集まる歴史的なイベントだったが、1969年8月17日に幕を下ろした。
 バエズはウッドストックについて「麻薬とセックスとロックンロールだった」と危うさに触れると同時に、「だが、ウッドストックはまた、私でもあった。ジョーン・バエズ、石頭で、妊娠6か月で、徴兵拒否者の妻で、戦争反対をいつでも訴えている。私の場所がそこにあった」と認めている。

 バエズは日本にも来ている。1967年1月。「自伝」には通訳をめぐるトラブルが記されている。バエズはニューヨーク・タイムズの抜粋を引用している。
 「CIA要員、ハロルド・クーパーと名乗るアメリカ人が、日本の通訳高崎一郎に、ミス・バエズがヴェトナムや長崎の被爆者について話したら、毒にも薬にもならない日本語に通訳するよう命じた、と朝日新聞が報じ、高崎氏はその事実を認めた」。
 バエズ自身も、自分が話したことが観客に伝わっていない、と感じ、通訳に強い疑念を持っていた。

 当時の朝日新聞(1972年2月21日朝刊)によると、朝日より先に米国の週刊誌「ニューズウィーク」が報道していた。米中央情報局(CIA)が日本の司会者の高崎一郎氏(ニッポン放送プロデユ―サー)に対して、バエズの政治的発言をわざと誤って訳すよう圧力をかけた、というもの。
 「TOKYOミステリー」と題する朝日新聞の記事によると、コンサートがテレビ放映されたとき、通訳のあまりのひどさに日本の視聴者が驚いたという。ベトナム戦争に税金が使われることに反対して納税を拒否している、というバエズの話を、米国の税金は高いと訳したり原爆についての話は無視したりした。
 高崎は「協力してくれなければ、仕事の差しさわりが出るだろう」と脅されたという。
 高崎氏は「相手が自分の子供の名前や仕事の内容をよく知っており、気味が悪くなって心ならずも言うことを聞いた」「バエズは素晴らしい音楽的才能の持ち主だ。何も“ベトナム反戦平和”を売り物にしなくてもいいのにと思うのだが…」。
 高崎は「オールナイトニッポン」の初代パーソナリティーとして活躍した有名人だが、この通訳事件と発言は日本のジャーナリズムの未成熟さだけを浮き彫りにした。

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