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「母なき子のさびしさ」

 独立メディア塾 編集部

 双葉山定次(1912年2月9日~1968年12月16日)は、大分県出身の第35代横綱の言葉。本名は穐吉(あきよし)定次。
 1939年(昭和14年)1月15日、双葉山は西前頭三枚目の安芸ノ海に敗れ、連勝記録は「69」で終わった。当時、年二場所の時代であり、興行日数も11日制から13日制に移った時期でもあった。69連勝は3年がかりの記録になった。今も破られていない。現役を退いて時津風親方になり、相撲協会の理事長を務めた。
 (双葉山著「横綱の品格」から)

 双葉山は小学校に上がる前、6歳のとき以来、失明状態だったと告白している。
 「はっきりした原因はわからないのですが、(吹き矢が当たったためだという人もあるが、自分でははっきりした記憶がないのです)友だちといたずらをしているあいだに右の眼を痛めました。(略)治療を受けたのですが、経過は思わしからず、ついに失明にちかい状態で今日に至りました」。
 大横綱の右目が見えない、ということは現役時代、知られていなかった。双葉山が入門した立浪親方は目のことを誰にも言うなと口止めしたという。(工藤美代子著「一人さみしき双葉山」から)
 しかし力士たちの間では目の異変がささやかれていた。NHKの「歴史への招待 23」に医者の談話が紹介されている。双葉山の主治医だった上田英雄さん。診察したのは双葉山が52、3歳のころという。東大病院に双葉山のカルテも保存されていた。
 「現役当時もほとんど右目は見えなかったと思います。(略)相撲のような闘技で、しかも瞬間的に力を出さないといけない人が、その距離感もなしに(略)受けて立って、そして勝ということが(よく)できたと思いますね」。
 双葉山も当然、目の影響が相撲に表れないように、体で相手の動きを感じ取る修練を積んだという。NHKアナウンサーだった山本照氏は「あの人は力水を一ぺんしかつけない。目が悪かったから、無駄に動きたくなかったんだ」と述べている(「一人さみしき双葉山」から)。
 双葉山は10歳の時に母親を亡くした。自らを「母性愛の体験が少ない人間」だったため「心の空虚を生めてくれる女性にあこがれた」と述懐している。工藤の「一人さみしき双葉山」は年上の女性との関係に焦点を当てている。
相撲の連勝記録は
 1位 双葉山69連勝
 2位 白鵬63連勝
 3位 千代の富士53連勝
 4位 大鵬45連勝
 5位 朝青龍35連勝

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