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「天国までついてきてくれ。そうすればあの世でも最高のモデルを持つことができる」

 独立メディア塾 編集部

 アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(1884年7月12日~1920年1月24日)は、イタリアの画家、彫刻家。主にパリで制作活動した。芸術家の集うモンパルナスで活躍し、エコール・ド・パリ(パリ派)の画家の一人に数えられる。表題の言葉は臨終の際に、同棲していた女性に残した言葉とされている。モディリアーニの死後2日、二人目の子供を身ごもっていた彼女は投身自殺をした。
(ジューン・ローズ著「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」、ポーラ美術館「モディリアーニを探して アヴァンギャルドから古典主義へ」、橋本治・宮下規久朗著「モディリアーニの恋人」、「NHK迷宮美術館 巨匠の言葉」から)

 モディリアーニの両親は古い家系のスペイン系ユダヤ人だった。一家は地域の尊敬を集め特権的な家庭だった。子供のころ、腸チフスや肋膜炎を患ったモディリアーニは17歳のころ、転地療養のためにローマやフィレンツェ、ヴェネツィアなどイタリアの歴史的な街を巡り歩いた。彫刻家を目指したが、石材が高価だったために、次善の策として絵を描いていた。(現在25点の彫刻作品が確認されている)

 「彼は遊び人だった。彼の姉やジャーナリストは「モディリアーニには背徳の香りが漂っており、退廃的な気風に強く染まって自分の教養を誤った方向に振り向けていた」。「老若を問わず女性たちは彼に夢中になった」。(「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」)
 21歳でパリに行き、ピカソやマチスの影響を受けた。パリに出てから数々の女性と浮名を流し「モンパルナスの貴公子」と呼ばれた。(NHK「迷宮美術館 巨匠の言葉から」)

 モディリアーニは1917年の1年間で125点の絵を制作し、30点ほどの裸婦も描いた。モデルはプロのモデルやウェイトレス、乳しぼりの女といった性的魅力のある若く健康的な女性たちだった。
 美術を勉強する19歳のジャンヌ・エビュテルヌと知り合ったのは1916年。二人はホテルの一室で暮らし始めた。
貧しさが二人を苦しめたが、1917年12月に開かれた個展では、陰毛を描いた裸婦が話題になり、多くの見物客が集まった。同時に地区の警察長官から「撤去命令」が出される騒ぎになった。皮肉なことに、この騒ぎをきっかけにモディリアーニの作品は売れるようになった。
 翌年、ドイツ軍による空襲が激しくなり、結核だったモディリアーニは南仏へ移動した。しかし気に入ったモデルが見つからず、風景画を勧められたことがあったが、彼の答えは「目の前に人がいないと描けない」「風景には表現するものがない」。モディリアーニはパリにいた12年間、ほとんど肖像画だけを描いていた。現存する風景画は4点と言われている。
 二人の間には女の子が生まれたが、戦争が終わってパリに戻ったとき、ジャンヌ・エビュテルヌは二人目の子供を妊娠していた。
 1919年の冬は例年にない寒い冬だった。モディリアーニの病状は悪化し、翌年の1月24日、結核性髄膜炎で死亡した。ジャンヌについては「何もいわずに、長い間彼をじっと見つめていた」「モディリアーニの死体に覆いかぶさった」など異なった証言がある。表題の言葉はジャンヌに残した最後の言葉と言われる。ジューン・ローズはモディリアーニの死後、逸話が増殖したと指摘している。
 ジャンヌはモディリアーニの死後二日目に6階から飛び降りた。友人たちは二人の合同葬を提案したが、自殺が反宗教的な行為だったことなどから、人目のつかない朝8時に行われた。ジャンヌの墓は後にモディリアーニと隣同士の墓に移された。
 なぜ、彼の絵の人物は顔が長いのか。モディリアーニのモデルになったことがあるジャン・コクトー(フランスの詩人、小説家、評論家)は次の様に指摘している。
 「決して意図的に人物像の顔を伸ばしてはいないし、シンメトリー(左右対称の様式美)の欠如を強調したり、目をえぐりだすとか、首を伸ばしているのでもない。すべては彼の内面から生じているのだ」。(「モディリアーニを探して」から)
 「アメデオ」は「神に愛されたもの」の意味。

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