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「わが亡きあとに人権は甦れ」

 独立メディア塾 編集部

 帝銀事件の犯人として死刑を宣告された平沢貞道、(1892年=明治25年2月18日~1987年5月10日)は、日本のテンペラ画家。
 帝銀事件は1948年(昭和23)1月26日、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店で行員ら12人が毒殺された事件。7か月後、平沢が逮捕され、死刑判決を受けた。表題の言葉は「遺書 帝銀事件平沢貞道」のタイトルから。平沢は無罪を訴え続け、刑確定から32年を経た1987年5月、95歳で東京の八王子医療刑務所で死亡した。
 (平沢貞道著「遺書 帝銀事件」、「痛恨の画布 平沢貞道・獄中画と書簡集」から)

 平沢は世間が妻子にどれだけ迫害したか書いている。
 「私事ながら、宅の妻子は『あれは平沢の家だ』『あれは帝銀事件の犯人の妻だ、子だ、孫だ』とのぞかれ、冷罵され、中野の新築の家を捨てて、姓も実家の姓を名乗り、豪徳寺に移転しましたが、そこものぞかれて、四谷に移転」。さらに神奈川県境近くに引っ越し3年ほど落ち着いたという。
 「平沢救出・助命対策の会」を作るからと署名運動の援助を申し出てくれたことがあった。しかし妻は「平沢は犯人ではございません。私たちは俯仰天地に恥じませんのですから、“命乞い的特赦的運動”なんてできない。侮辱でございます。とおことわりして、9年間一週も欠かすことなく差し入れに協力してくれています」と家族への思いやりを書いている。
 1996年1月29日に作家の森川哲郎宛の書簡では、最後の請願書を次のように結んだと伝えている。
 「殺すなら殺されよ。無犯罪は不正裁判を超越して、死刑に処せられたのではなく虐殺された丈だ。!!!恐ろしくはないぞ!!!恐ろしいのは無実の非犯人と知りつつ殺し去る不正である」。
 獄中1万1千150日に及ぶ異様な死刑判決は執行されないまま終わった。
 帝銀事件は青酸化合物による殺人強盗事件。犯人は都の衛生課員を装い、赤痢予防薬と欺いて行員ら16名に青酸化合物入り液体を飲ませ、現金・小切手約18万円を奪った。事件発生から7か月後、平沢が逮捕された。1950年一審で死刑判決、55年最高裁で死刑確定した。平沢はその後も再審要求を続けた。平沢真犯人説については物的証拠に欠けるため、1962年には作家で「遺書 帝銀事件平沢貞道」の解説者である森川哲郎を中心とする「平沢貞通氏を救う会」が結成され、無実を主張する運動も広がった。歴代の法務大臣が死刑執行命令を出さないまま長期拘置が続き、刑確定32年を経た1987年5月、95歳で東京の八王子医療刑務所で死亡した。死刑制度の在り方に大きな疑問を投げかけた。
 テンペラとは、顔料を卵や膠(にかわ)などで混ぜ合わせた絵の具を用いる絵画技法のこと。平沢は当時、若手画家として活躍しており、月に300円程度の恵まれた収入があった。

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