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「死ぬことは構わないけど、夫をあとに残すことになるなんて。だれがあの人の面倒をみるのですか。あの可哀想な人はどうなるの?」

 独立メディア塾 編集部

 ローズ・ロダン(1844〜1917)の言葉。ローズはフランスの彫刻家オーギュスト・ロダン(1840年11月12日~1917年11月17日)の妻。ロダンは代表作『地獄の門』、その一部を抜き出した『考える人』などを持つ19世紀を代表する彫刻家。ローズは夫の生活を支え続けたのに、正妻扱いされず、ロダンと正式に結婚できたのは死ぬ2週間前、72歳のときだった。ロダンもローズの後を追うように10か月後に亡くなった。
 (湯原かの子著「カミーユ・クローデル 極限の愛を生きて」から)

 ローズはパリでお針子をする20歳の小柄な美人だった。ロダンの修業時代の伴侶であり、モデルにも、助手にもなり、家事、子供の世話もした。ロダンの父親の最期もみとった。ロダンのブロンズ像「ミニョン」はローズがモデルと言われている。しかしロダンは社交的な集まりにも旅行にも連れて行かなかった。正式な妻として処遇しなかったのだ。
 そこに三角関係の主役になったカミーユ・クローデルが登場し、それから15年間にわたる三角関係が始まった。

 15年にわたる三角関係

 カミーユ・クローデルは1864年フランス北部で生まれた。19歳のとき、42歳のロダンと会い、弟子入りした。やがてモデル、愛人の関係になり、ロダンの子供を妊娠したこともあった。1898年、ロダンとの関係に終止符を打つまでの15年もの間、ローズとカミーユとの間で妥協を許さない修羅場が展開された。
 それでもローズは分かっていた。カミーユだけでなく女性遍歴を重ねるロダンにとって、相手が社交界の夫人であろうと、モデルであろうと、いずれも一時の情事だ。ロダンが芸術家としての仕事を大切にし、最終的には自分のところへ戻ってくる、と。

 湯原は二人の関係を次のように言う。
 「ローズの人生こそは、まさに一人の天才が自己実現するための影となり、義務と絶望を背負った忍従の人生であった。ローズはロダンと芸術の世界を共有しているわけでもなくロダンの愛を一身に受けているわけでもない」。
 「自然の中に遍在する偉大さに感動してしばしば我を忘れているロダンに、外気が寒すぎはしないかと気遣い、風邪をひかぬようにと外套をそっとはおらせてやる瞬間、このときだけは天才彫刻家も『私のロダン』となるのだった」

 「なんと美しいのだろう」

 1917年1月29日、市長立会いの下で自宅で簡素な結婚式を挙げた。ロダン76歳、ローズ72歳。以前から財産目当ての女性たちがロダンの周りにいた。またロダン美術館設立がロダンと美術省の役人の間で進んでいた。ロダンの全作品をフランス国家に譲渡する代わりに、国はローズに終身年金を保証した。そのためには正式な結婚が必要だった。1916年12月、ロダンの一切の所有物の国への寄贈とロダン美術館設置をうたった法案が両院を通過し可決された。
 結婚式から2週間、2月14日ローズは死んだ。ロダンは棺の中の妻を見て「なんと美しいのだろう、まるで彫刻のようだ」と口走った。そのロダンも11月17日肺炎で没。

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