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「あの忌まわしい事件―私は隠れて暮らすようになった」

 独立メディア塾 編集部

 作家深沢七郎(1914年1月29日~1987年8月18日、73歳没)の「流浪の手記/深沢七郎」から。1957年、「楢山節考」で第1回中央公論新人賞を受賞し、作家デビュー。皇居が民衆に占拠され、天皇一家が処刑されるという設定の「風流夢譚」(1960年)が発表されると、右翼の激しい脅迫を受けた。1961年2月1日、出版元の中央公論社長宅が襲撃され、17歳の右翼少年に手伝いの女性が刺されて死亡、社長夫人が重傷を負った。「風流夢譚」は現在も書籍化されていない(電子書籍は販売)ことが、天皇制論議を抑え込むタブー化の深さを示している。

 深沢七郎は「風流夢譚」への右翼の襲撃事件のあと、1961年2月6日に記者会見をした。翌7日、朝日新聞は「ひょっこり記者会見」という見出しの記事で「私がイケなかったのだ。失敗だった」という深沢の談話を載せた。

 一方、中央公論社は混乱の極みだった。深沢の会見記事が掲載された同じ7日、同じ社会面に社長嶋中鵬二の名で「お詫び」の新聞広告を出した。嶋中は「風流夢譚」を「掲載に不適当な作品」と断罪し、監督不行届きのため公刊され、皇室ならびに一般読者に多大のご迷惑をおかけしたことを深くお詫びする、と全面的に非を認めた。
 しかし2日前の2月5日には、この「お詫び」とは全く逆の「ご挨拶」を、新聞に出したばかりだった。中央公論社名の「ご挨拶」では「2月1日の事件は、言論に対する正当な反撃の範囲をはるかに逸脱したものであり」「私たちは社業を通して言論の自由確立のために献身することを改めて誓い」と言論への暴力を批判し、戦う姿勢を明確に打ち出した。
 この「ご挨拶」作成には永井道雄氏、久野収、鶴見俊輔氏ら、当時の知識人、文化人と言われる人たちが関わった。

 中公社長の「恐怖演説」

 「ご挨拶」を否定し、右翼テロに屈したような「お詫び」を出した7日、嶋中社長は全社員を集めて、激烈な演説をぶった。
 「バカな評論家があの作品を評価し、皇室にたいする名誉棄損か否か裁判に持ち込めなどと言っているが、そんなことをしたら裁判中に右翼に攻撃されるだろう」「万一、たった一人でも言論の自由のタテマエをふりまわして軽挙妄動する者があれば、その者によってこの建物がふっ飛び、殺人が行われ、百三十人が路頭に迷うかもしれない」。
 40分にわたる演説は後に「恐怖演説」と呼ばれた。
 (2月5~7日の中央公論の動きは中村智子著「『風流夢譚』事件以後 編集者の自分史」、根津朝彦著「戦後『中央公論』と『風流夢譚』事件」から)
 深沢は「あの忌まわしい事件―私の小説のために起こった殺人事件に私は自分の目を疑った。諧謔小説を書いたつもりなのだが殺人まで起こったのである。そうして私は隠れて暮らすようになった」。
 旅に出た。「目的も、期間もない旅なので汽車に乗ったり、バスに乗ったりした。靴はすぐ足が痛くなるので下駄で歩いた」。こうして2年間にわたって深沢は筆を折るように流浪の日々を送ることになった。(「流浪の手記」深沢七郎から)

 荒俣宏責任編集「もうひとつの戦後史 知識人99人の死に方」の中で末藤浩一郎は深沢について「この世の中には恐ろしい病気があるねえ。それは“死ねない”という病気だよ」という文章を書いている。末藤の文章と「戦後『中央公論』と『風流夢譚事件』」から深沢のエピソードを引用する。
 42歳で「楢山節考」が第1回中央公論新人賞を受賞したときの選考委員だった三島由紀夫は、「風流夢譚」を下読みして刺激を受け「憂国」を書きあげた。中央公論に「風流夢譚」と「憂国」を同時掲載することで毒を相殺することを提案したという。
1965年、深沢は50歳の時に埼玉県に「ラブミー牧場」を開き、男3人で農業生活を始めた。何度も心筋症の発作に見舞われた。「死ねないという病気」発言は、その苦しい体験からのものだ。
 深沢は墓や仏壇も用意し、自作自演のお経テープまで作った。リストの「ハンガリー狂詩曲」やプレスリー、ローリングストーンズのBGMに載せて「般若心経」などを吹き込んだ。
 告別式の日、出棺の直前に、深沢の声が流れた。「お暑い中をありがとう。お別れに歌を聴いてください」。流れたのは自作の「楢山節」の弾き語りだった。

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