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「恥ずかしながら帰って参りました」

 独立メディア塾 編集部

 横井正一(1915年3月31日~1997年9月22日)は、日本の陸軍軍人、評論家。最終階級は陸軍軍曹。太平洋戦争終結から28年目、1972年(昭和47年)1月24日の夕暮れ時、アメリカ領グアム島で現地住民に発見された。57歳。横井はエビやウナギをとるために罠をしかけに行ったところだった。表題の言葉は発見後の記者会見の言葉。その年の流行語になった。
 横井は1974年に参院選に立候補したが落選。、耐乏生活評論家、生活評論家として各地で講演した。

 横井が羽田に帰国した1972年2月2日は札幌五輪開幕の前日。各紙の夕刊には「横井さん グアムから帰国」の大きな見出しが躍った。そしてすぐ脇には、五輪関係者を悩ませていたオーストリアのスキー棄権騒ぎが急転直下、解決したことを伝えるニュースがあった。横井の生還は日本の戦後が終わっていないことを日本人に突きつけ、東京・札幌という二つの五輪は日本が新しい段階に入ったことを象徴していた。

 「明日への道 全報告グアム島孤独の28年」(横井著)によると、昭和19年3月4日に「船はようやくある港に入っていきました」。上陸後、島にいた日本人からグアム島だと教えてもらった。グアムは「濃い緑に覆われた、夢のように美しい島」だった。
 7月になると米軍の艦隊からの艦砲射撃、空からの爆撃が絶え間なく繰り返されるようになった。攻撃は激しさを増し、日本軍は十分な食料もないまま中隊は解散し、小隊ごとの行動に分けられた。小隊約30人。「敵に発見されやすいし、食料の問題もある」ということで、さらに三分割。横井は5人のグループを率いることになった。横井のジャングル生活が本格化したときだ。
 「日本は戦争に敗けました」という投降勧告の放送がおこなわれるようになったが、木に登って偵察した横井は、マイクの後ろに米国の旗が翻っているのを見て不信感しか持てなかった。隊員も3人に減り、やがて長い間行動を共にした2人も死亡。それから8年間、横井は一人でジャングル生活を送ることになった。
 横井は最後の章で次のように書いている。
 「殺されるかもしれないという私の疑心がすっかりとけたのは、4月1日に東京の病院の、最初の15階の特別室から16階の普通の個室に移され、入り口の警備のガードマンが一人に減ったときからでした」
 朝日新聞デジタル(2017年7月9日)に妻美保子さんの、次のような話が載っている。二人は1972年11月3日に結婚した。

 「なんで帰ってきた」電話に謝る横井の妻

 「挙式直前の10月、フィリピンで元日本軍兵士2人が警官と銃撃戦になり、1人が死亡した。生き残ったのが、74年3月に帰国した故小野田寛郎さんです。
 私たちは新婚旅行を中止した。結婚式だけ挙げたが、予定変更で準備が整わず、夜中に着いた新居の県営住宅は電灯もカーテンもなかった。
 はじめ、『夜の電話は取らなくていいよ』と言われた。その意味はすぐ分かった。『なんで生きて帰ってきた』『お父さんを帰せ』。戦争で家族を失ったご遺族なんだろうか。憤りをぶつける相手がいなくて電話してくるのです。まだ戦争の傷が残っている時代、電話はすべて自分で出ようと決めた。『はい、すみません』。黙って聞いて、謝った」。
 「帰国2年後、参院選に出ました。(略)落選後、講演依頼がぱたりと無くなった。静かな生活が始まり、陶芸を始めた。それがよかったんです。『講演は仕事』と割り切っていたようです」。
「その静かな生活も長くはなかった。胃がん、脱腸、パーキンソン病と闘病生活が続いた。帰国後の25年のうち、元気だったのは13年でした」。

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