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「日の丸飛行隊」

 独立メディア塾 編集部

 1972年2月3日に開幕した札幌冬季五輪は、アジアで初めて開かれた冬の大会。開会式には5万4千人の大観衆が集まった。35か国・地域から選手1128人(男性911人女性217人)と527人の役員が参加した。1940年に予定されていた札幌大会が中止されて、32年後に実現した。
 日本はスキージャンプ70m級(現在のノーマルヒル)で笠谷幸生の金とともに銀、銅を獲得し、日の丸飛行隊と呼ばれた。札幌大会でのメダル獲得は、この3つだったが、それまでは猪谷千春が1956年コルチナ・ダンペッツオ五輪のアルペン回転で取った銀メダルの1個だけだった。

 1940年の札幌五輪が中止になったのは、同じ年に開催が決まっていた東京五輪が中止になったためだ。現在、夏と冬の五輪開催には2年のずれがあるが、1992年の冬季アルベールビルオリンピックまでは夏と冬は同じ年に開かれていた。その2年後、1994年の冬季リレハンメル五輪から2年ずれるようになった。
 日本は1932年に立候補を表明し1940年の開催が決まった。紀元2600年記念と関東大震災からの復興いう大義名分を掲げ、しかもアジアで初の五輪、ということで盛り上がった。

 五輪も万博も中止

 ところが大会準備中の1936年に「2・26事件」が起き、さらに1938年に「日中戦争」に突入。特に日中戦争の長期化で鉄鋼などの建設資材がひっ迫したことや、軍部の反対などで最終的に返上を決めざるを得なかった。1939年には第二次世界大戦が始まり、1941年には「太平洋戦争」に入ったので、五輪どころではなくなった。
五輪との同時開催が検討されていた「紀元2600年記念万国博覧会構想」も同時に中止になった。
 「東京オリンピックの社会経済史」(老川慶喜編著)で関口英里はオリンピックと万博の開催が「実現の一歩手前で幻と消えた事実が重要な意味を持っている」として「戦後のオリンピックと万博は何としても成し遂げねばならない戦前からの積み残し課題」と指摘している。
 関口は1940年万博を例に挙げて、世界各国が日本精神の神髄を体得すれば、国際平和は期せずして実現する、という「東西文化の融合」をテーマにしている、という。これに対して、1970年の大阪万博では、国粋主義的な姿勢が人類の進歩と調和という平和的なテーマに置き換えられた、という。そのうえで、「西洋(他者)」対「日本(自己)」という、近代的二項対立の文化的アイデンティティは受け継がれていると分析している。

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