記事応募にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

「四十五ねんのあいだわがままお
ゆてすみませんでした(略)
ミナサン
あとわ
よろしくたのみます」

 独立メディア塾 編集部

 木村セン(1891年=明治24年3月8日~1955年2月14日)は18歳で群馬県吾妻郡の農家に嫁ぎ、一心不乱に働く日を送った。5男4女をもうけたが、3人は結核などで早く失った。1955年、凍った地面で転び足を骨折、働くことができなくなったことから自死を選んだ。64歳。遺書は障子紙に赤の色鉛筆で表と裏、両面に書かれていた。死の1カ月ほど前、孫と文字の手習いを始め、遺書は彼女が書いた最初で最後の文章になった。
 (朝倉喬司著「老人の美しい死について」、沢地久枝著「昭和・遠い日近い人」から)

 センは嫁いで45年。朝倉によると、彼女は「死のほんの少し前まで、まとまった文章を書いたことなど一度もなかった。文字というものを、おぼろげに読むことはできたとしても、書くことはできないといってよかった」。
 19歳で母になった。長男は左官屋に奉公に出たが、肺結核のため17歳で死亡。3男を生んだときは産気づくぎりぎりまで働き、産婦の介添えもなく自力で出産した。へその緒を年上の子に切らせたという。

 

 サワガニ、イモリ、バッタの「ふりかけ」

 貧しい生活の中で、センが手作りする「ふりかけ」は、サワガニ、バッタ、イモリ、イナゴ、トウモロコシにつく白虫などを火でいり、すり鉢ですりつぶしたものだった。電気や水道がやっとそろい始めた貧しい時代の農村と家族を支えたセンの生命力だ。
 子供たちは学校の成績もよかったが、戦争の影はセンの家族にも及んだ。長男に代わって跡取りになった息子(春太郎)と4男(七郎)の二人は1944年(昭和19年)にそれぞれ少年飛行兵と陸軍を志願した。
 沢地はこう言う。「多感で知的にも優れた若者ほど、戦争の熱にとらえられる時代が来ていた」。
 幸い二人の息子は戦争終結と同時に帰宅した。しかし春太郎は肺結核で24歳で亡くなる。センは泣き崩れた。
 「ほれ!うちにけえったんだよ。ほれえ…あんなにけえりたがってたのに…こんなものに…なっちまって…」
 1955年2月14日。センは外に作られた便所に行き、転倒して大腿骨を骨折した。診断は「入院3カ月」。働けなくなったら生きていたくない。沢地は「人の値打ちに対するつつましく律儀な気持ち。人間は何のために生きているのかという根元の問の闇を、木村センは飛び越えた」。

◇「四十五ねんのあいだわがままお
 ゆてすみませんでした
 みんなにだいじにしてもらて
 きのどくになりました
 じぶんのあしがすこしも いご
 かないので よくよく やに
 なりました ゆるして下さい
 おはかのあおきが やだ
 大きくなれば はたけの
 コサ(木の陰)になり あたまにかぶサて
 うるさくてヤたから きてくれ
 一人できて
 一人でかいる
 しでのたび
 ハナのじょどに
 まいる
 うれしさ
 ミナサン あとわ 
 よロしくたのみます 
 (二月二日 二ジ)

コメント投稿にはログインが必要です

パスワードを忘れた方はこちら

こちらのコメントを通報しますか?

通報しました