「色欲消耗し尽くせば人の最後は遠からざるなり。
依てここに終焉の時のことをしるし置かむとす。」
 独立メディア塾 編集部
- 作家永井荷風(1879年12月3日~1959年4月30日)は38歳から79歳の死の直前まで日記を書いた。その「断腸亭日乗」(だんちょうていにちじょう)の1936年(昭和11年)2月24日の遺言から。
一、余死する時葬式無用なり。死体は普通の自動車に載せ直ちに火葬場に送り骨は拾ふに及ばず。墓石建立また無用なり。新聞紙に死亡広告など出す事元より無用 - 一、葬式不執行の理由は御神輿の如き霊柩自動車を好まず、また紙製の造花、殊に鳩などつけたる花輪を嫌ふためなり。
一、余が財産は仏蘭西(フランス)アカデミイゴンクウルに寄付したし。(略)
一、余は日本の文学者を嫌うこと蛇蝎の如し。
一、(略)
一、余が死後において、余の全集及その他の著作が中央公論社の如き馬鹿々々しき広告文を出す書店より発行せらるることを恥辱と思ふなり。
一、余は三菱銀行本店に定期預金として金弐万五千円を所有せり。この金を以て著作全集を印刷し同好の士に配布したしと思ふなり。
荷風が愛した16人の女性
永井荷風の代表作は「濹東綺譚」など。芸者、女給、私娼などを愛し、アメリカ、フランスを外遊後、「馴染みを重ねたる女」を日記に記載。(1936年1月30日)。
「一 鈴木かつ 柳橋芸者にて余と知り合ひになりて後間もなく請負師の妾となり…。明治四十一年のころ
二 蔵田よし 大蔵省官吏の女
三 吉野こう 余が随筆「冬の蠅」に書きたればここに…
(略)
八 野中 直 私娼なり、茅ヶ崎農家の女」
と説明付きで16人を列挙した。
42年間の日記として世相風刺や花街の風俗描写などで有名だが、「日記の虚実(紀田順一郎)」は「誇張やウソに充ちた“創作的日記”」であり「発表を前提としていたことは明かだ」と厳しい評価をしている。
実際、荷風の文化勲章受章には批判が多い。「断腸亭日乗」の1940年10月8日に
「鰻(うなぎ)は万人悉(ことごと)くうまいと思って食うものとなさば大いなる謬(あやま)りなり。勲章はだれしも欲しがるものとなさば更に大きな謬りなり」
と書いたことや、浅草のストリップ劇場に出入りしていたことなどから勲章を断るだろうと思われていたのに、予想を裏切って1952年11月3日に受章した。
その日の日記には朝8時に車の迎が来たことから吉田茂首相による授賞式、そして食事、晩餐会まで克明に書かれている。さらに2日後の11月5日の日記には
「夜浅草。ロック座座長松倉氏女優踊子二、三十人を逢坂屋洋食店楼上に招き余が文化勲章拝受の祝宴を張る。」
とある。よほど嬉しかったのだろう。
葬儀に注文つける人は多い
葬儀などに注文を付けた人は多く、画家梅原龍三郎(1888年3月9日~1986年1月16日)は
「葬式の類は一切無用のこと 弔問、供物の類はすべて固辞すること。生者は死者のためにわずらわされるべきにあらず」
と遺書を残した。
小説家、評論家の石川淳(1899年3月7日~ 1987年12月29日)は
「俺が死んでも、誰にも知らせるんじゃないぞ。葬式はするな。墓もいらない。骨は山か海に行って撒いてこい」
と常々言っていた。(「知識人99人の死に方)から)
コラムニスト山本夏彦(1915年6月15日~ 2002年10月23日)
は菩提寺の住職あての手紙で「戒名にも上中下がありまするなら 並みで結構 ただし『夏』の一字を挿入していただければと存じております」(「週刊文春 昭和の遺書」)