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「なぜ、こんなにいい女体なのですか」

 独立メディア塾 編集部

 斎藤茂吉(1882年5月14日~1953年2月25日)は歌人、精神科医。大正から昭和前期にかけて活躍したアララギ派の中心人物。精神科医としては青山脳病院(現在の都立梅ヶ丘病院や斉藤病院の院長を務めた。表題の言葉は茂吉が不倫の相手、永井ふさ子(1910年9月3日~1993年6月8日)にあてた手紙(1936年・昭和11年11月26日)から。

 不倫騒ぎは今でもメディアの格好の標的だが、多くは泡のように消えてゆく。茂吉ほどの大物になると、歌とは別に終生、語り継がれるエピソードになってしまうのがつらい。茂吉はふさ子に「手紙は人に見せてはいけない。読んだら必ず燃やしてくれ」と命じた。しかし逆に茂吉の恋心は燃え盛るばかりだった。

 「春あたりまで、気が引けて、醜老身を歎じていましたが、このごろは全く、とりこになつています。」(11月24日書簡より)

 「ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか。どうか大切にして、無理してはいけないと思います。玉を大切にするやうにしたいのです。ふさ子さん。なぜそんなにいいのですか。」(11月26日書簡より)
 この2通には(手交)と書かれている。郵便ではなく、茂吉が直接手渡したもので、封筒の表書きは恋しき人にとある。

 ふさ子は茂吉と別れた後、独身を通した。しかし茂吉の没後「斎藤茂吉 愛の手紙によせて」を著して手紙を公表したことで、すべてが白日の下にさらされた。二人の関係は師弟。最初に出会ったのは昭和9年9月16日、向島百花園で行われた「正岡子規忌歌会」。茂吉52歳、ふさ子25歳だった。
 昭和11年11月17日、茂吉から手紙を受け取った後に次のような文章を書いている。二人で歌を合作したいきさつである。
 「〇光放つ神に守られもろともに
 右の先生の上句に、下の句を付ける様にと言われたので、最初『相寄りし身はうたがはなくに』と詠んだところ、『弱い』と言われ、作り直して『あはれひとつの息を息づく』としたら、『今度は大変言い、人麿以上だ』と機嫌のいい冗談が出るほどのよろこびようであった」
 ふさ子は「斎藤茂吉・愛の手紙によせて」の「あとがき」で、いつも書簡を焼却するように言われていたが「初期の30通余りを焼いた後の言いようのない寂しさをおもうと、先生との恋愛関係を断った今となってはとても焼きすてることが出来ず、これだけは自分の生ある限りは以ていようと思った」と書き残している。
 茂吉の死後10年を経た1963年、ふさ子は80通にのぼる書簡を雑誌を通して発表した。
 茂吉の代表作は「赤光」「あらたま」など。


『斎藤茂吉・愛の手紙によせて』(1981年)

 茂吉の次男で作家の北杜夫は「古来多くの恋文はあるが、これほど赤裸々でうぶな文章は多くはあるまい」(評伝『茂吉彷徨』より)と記していますが、これに異論はないでしょう。

故郷を後にした15歳の茂吉。もなかを食べて「こんなうまいものがあるのか!」と驚き、たどり着いた東京で「こんなに明るい夜があるものだろうか!」と驚いた茂吉。それから40年の時を経て、ふさ子を前にしてすっかり15歳の少年に戻った茂吉がいます。

ふさ子は茂吉への想いを断ち切るため、婚約しましたが1年後には解消し、独身を通してその生涯を終えました。
茂吉が上句をつくり、ふさ子が下句をつけたふたりの合作の歌が残されています。

光放つ神に守られもろともにあはれひとつの息を息づく

茂吉と「ひとつの息を息づく」その時は、ふさ子にとって永遠のものとなったのでしょうか。ふさ子にとっては、失うものより手にしたものの方が多かったのでしょうか。

矜持を持って生を全うした、茂吉、輝子、そしてふさ子。運命を受け入れる柔軟さと力強さに満ちたその生き方は、これからも輝きを放ち続けることでしょう。

参考文献:
永井ふさ子 『斎藤茂吉・愛の手紙によせて』 求竜堂 1981
斎藤由香 『猛女と呼ばれた淑女 祖母・斎藤輝子の生き方』新潮社 2010

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