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「お目にかかりたさに、山を越えてまいりました。
これからまた山を越えて家へ戻ります」

 独立メディア塾 編集部

 金子みすゞ(1903年4月11日 ~1930年3月10日)は西条八十の詩を愛し、投稿した詩が八十の目にとまった。1927年夏、八十が九州の講演に行く途中、下関駅でわずか5分の、最初で最後の対面が実現した。赤子を背負ったみすゞは、「これから山を越えて家へ戻ります」と言った。26歳で自殺。

(矢崎節夫著「童謡詩人 金子みすゞの生涯」、同「金子みすゞノート」から)

 金子みすゞの故郷は山口県長門市仙崎だ。日本海に面した小さな漁村だ。
 みすゞが活躍しはじめた大正時代は西洋文化の影響を受けて童謡・童話が花開いた時期だった。本屋で育ったみすゞ(本名 テル)は大正デモクラシーの流れの中で童話を書き始めた。
 1923年(大正12年)、みすゞは「童話」「婦人俱楽部」「婦人画報」「金の星」の4誌に投稿した。「金の星」以外は八十が選者だった。
 恐る恐る投稿した童謡は次々に選ばれて掲載された。
 「童話」に採用された「砂の王国」について八十は絶賛した。
 「今度も金子氏の作がいちばん異彩を放っていた。(略)『砂の王国』は傑作である。氏には童謡作家の素質として最も貴いイマジネーションの飛躍がある」。
 その八十がフランスに留学することになり、みすゞの人生に大きな影響を与えることになった。1926年にはみすゞは結婚した。しかし、結婚生活はうまくいかなかった。夫は遊郭通いし、おかげで、みすゞは淋病をうつされてしまった。さらに童話作家や登校仲間との文通も禁止された。1930年に離婚し、3月10日、睡眠薬で自殺した。
母、弟、離婚した夫に3通の遺書を残した。母あてには
 「今夜の月のように私の心も静かです」。
 西篠八十は1931年に、対面の様子を次のように書いた。
 「彼女と対面したのは、昭和2年の夏と覚えている。(略)夕ぐれ下ノ関駅に下りてみると、プラットフォームにそれらしい影は一向見当たらなかった。時間を持たぬ私は懸命に構内を探し廻った。やうやくそこの仄暗い一隅に、人目を憚るように佇んでいる彼女を見出したのだったが、彼女は一見二十二三歳に見える女性で取り繕わぬ蓬髪に不断着の儘、背には一二歳の我児を負っていた。」「彼女の容貌は端麗で、その眼は黒曜石のように深く輝いていた」「『お目にかかりたさに、山を越えてまいりました。これからまた山を越えて家へ戻ります』と彼女は言った。(略)連絡船に乗り移るとき、彼女は群衆の中でしばらく白いハンケチを振っていたが、間もなく姿は混雑の中に消えた」

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