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「撮影所は政治家に屈服した」

 独立メディア塾 編集部

 米国の映画監督、フレッド・ジンネマン(1907年~1997年)はユダヤ系ドイツ人。「ジュリア」「真昼の決闘」「日曜日には鼠を殺せ(原題=behold a pale horse)」「地上より永遠に」「ジャッカルの日」「オクラホマ!」「尼僧物語」などを製作。
 1929年、ウォール街崩壊の日にニューヨークに入る。両親はホロコーストで死亡したことを後で知る。
(「フレッド・ジンネマン自伝」とロバート・パリッシュ著「我がハリウッド年代記」による)

 ジンネマンが「真昼の決闘」を監督した1951年はマッカーシー旋風が吹き荒れていた。上院の委員会に呼び出され、共産主義者と思う人の名前を挙げなくてはならなかった。拒否すれば非友好的とされ職を失った。「撮影所は政治家に屈服した」のだった。
 「十戒」を二度も作った有名監督、セシル・B・デミルは共産主義者のブラックリスト作りに熱心だった。アメリカ映画監督組合の有力メンバーとして赤狩りの強化を図り、監督組合の代表者、ジョセフ・L・マンキーウィッツを追い落とそうとしていた。1950年、マンキーウィッツが海外旅行の留守をねらって「すべての監督が自分の監督する映画の撮影が終了したら、映画に関係した全員、とくに脚本家と訳者の政治的信念に関して発見したことを報告するよう義務付ける」という「強制忠誠誓約」の規約を通してしまった。

 監督たちが臨時の会合

 デミル一派に反対する監督たちは臨時会合の招集を要求し、12月22日の日曜日に臨時会合が開催された。デミルは臨時会合開催の請願書に署名した25人の監督を非難した。長時間の議論が延々と続いた後、最後はジョン・フォードの発言が締めくくった。
 「セシル・B・デミル以上にアメリカの大衆が見たいものを知っている人間はいないものと思う。その点で私は彼を尊敬する」。そしてフォードはデミルの顔をみつめながら言った。「だが、C・Bよ、私はあんたが嫌いだ。あんたの主張とやらも嫌いだし今晩ここで言ったことも嫌いだ」「みんな帰って寝よう。明日は撮影がある」。
 このいきさつを書いた「わがハリウッド年代記」(ロバート・パリッシュ著)は「私たちは紅海を二度まで分けた男、一度目は1923年にセオドア・ロバーツとともに、二度目は1956年にチャールトン・ヘストンとともに海原を分かった男を一敗地にまみれさせた(十回の話)」と書いた。

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