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「土器に残る平行線は、焼いた人の指先だ!」

 独立メディア塾 編集部

 英国の医者であり、指紋研究者のヘンリー・フォールズ(1843年6月1日~ 1930年3月19日)は指紋が一生変わらないという不変性を証明し、犯罪捜査などに使う道を開いた。1873年、東京・築地にプロテスタントの医療伝道団として来日し、大森の貝塚から発掘される土器の表面にうっすら残された溝に興味を覚えた。
 (「指紋を発見した男―ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け」から)

 フォールズは1873年、新妻と共に伝道団として日本に派遣された。離日するまでの10年間、東京・築地で病院(現在の聖路加病院)を運営し、日本の学生たちに講義をした。1877年、日本にいたアメリカ人動物学者、エドワード・モースが大森で貝殻と骨が捨てられた貝塚を発見した。モースと親しくなっていたフォールズも貝塚を訪れ土器の破片などをいじっているうちに、表面にうっすらと残る何本もの「平行線」に気付いた。市場で売られている新しい焼き物にも同じ線を発見した。「あたかも茶器の作家が自分の署名を刻もうとしたように思えた」。彼は日本人が母印を利用して個人の確認を行っている事に興味を持っていた。指紋研究者として、膨大な指紋コレクションの始まりになった。

 指紋鑑定を提案し続けた

 英国の科学雑誌「ネイチャー」の1880年10月号に、日本から届いた原稿が掲載された。フォールズの投書だった。「指先に刻まれた溝のパターンは生涯変わることがなく、個人識別のための道具として実用に耐える」。以後10年間、フォールズはスコットランドヤード(ロンドン警視庁)に指紋鑑定の有効性を提案し続け、1901年に指紋係が新設された。
 1905年、ロンドンで起こった老夫妻殺人事件の裁判が大きな転機になった。金庫に残された親指の指紋が犯人特定の証拠になるかが争点になった。ところが、この裁判でフォールズは被告の兄弟2人の側についてしまった。フォールズは1つの指紋だけで個人を識別することに反対し、誤認逮捕を懸念したからだ。
 世界中が注目する裁判だった。当時、犯罪現場の指紋を裁判に使っているのはスコットランドヤードとインドのベンガル州だけだったからだ。陪審団は兄弟2人に有罪の判決を下し、裁判が開始されてからわずか18日後に死刑になった。
 しかし、この裁判でフォールズは被告側に付き警察側と対立したため、「指紋鑑定の創始者」は誰なのか、という争いに残れなかった。この事件の前、1880年にウィリアム・ジェームス・ハーシェルがインド総督府に在籍中に世界で初めて指紋の採取を行った。また、「種の起源」を書いたダーウィンの従弟、フランシス・ゴールトンも名乗りを上げた。
 フォールズが死んで8年後、スコットランド人の裁判官がフォールズの功績を認めさせる運動を始めた。さらに50年が経ち、2人のアメリカ人指紋検視官がイングランドの共同墓地でフォールズの墓石を探し当てた。2人は自分たちで金を出し合い、墓を立て直すことを決めた。
 日本にも彼の業績をたたえた「指紋研究発祥之地」の記念碑がある。外国人居留地であった築地の一角、現在の聖路加ガーデンと聖路加国際病院の間に建てられている。「明治44年(1911年)4月1日わが国の警察においてはじめて指紋法が採用されてから満50年の今日ここゆかりの地に記念碑を建立し その功績をたたえるものである」と書かれている。

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