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「愛人といっしょに病棟の方に歩いていった父のうしろ姿を見送ったかどうかは、憶えていない」

 独立メディア塾 編集部

 須賀敦子(1929年1月19日~ 1998年3月20日)は日本の随筆家・イタリア文学者。1991年、「ミラノ 霧の風景」で女流文学賞、講談社エッセイ賞を受賞。主な著書に「コルシア書店の仲間たち」「ヴェネツィアの宿」「トリエステの坂道」「ユルスナールの靴」など。表題の言葉は「ヴェネツィアの宿」から。
 須賀は没後も多くの読者をひきつけている。静かに語りかける文章は、読む人の心に滑り込むように入ってくる。

 「ヴェネツィアの宿」は12編のエッセーで成り立っている。愛人と病棟に向かう父の話が最初のエッセーに登場する。そして12編目の「オリエント・エクスプレス」で、父との別れを書く。心に響く、というのはこのような文章か。

 オリエント・エクスプレスとコーヒーカップ

 ミラノにいた須賀は、父の容体が良くない、という知らせを受けた。父は「お土産を持って帰ってほしい」と言っている。土産は意表を突いたものだった。父は1936年、パリからイスタンブールまで旅をした。その時乗車したオリエント・エクスプレスの車内で使っていたコーヒーカップを所望したのだ。父は以前から娘に繰り返し言っていた。「ヨーロッパに行ったら、オリエント・エクスプレスに乗れ」。須賀も感じていた。オリエント・エクスプレス、なんという夢にあふれた名だろう…。
 須賀はオリエント・エクスプレスがミラノの中央駅に到着するのを待ち構えた。車掌長に「おかしなお願いがあるのだけれど」と事情を話して車内備え付けのコーヒーカップを売ってくれるように頼んだ。しばらくして彼は大切そうに白いリネンのナプキンにくるんだ包みを持ってきた。代金を訪ねた彼女に車掌長は「ご病気のお父様によろしくと伝えてください」と何ごともなかったように言った。
 羽田から病院に直行すると、父は焦点の定まらなくなった目を向けて、ため息のような声でたずねた。「オリエント・エクスプレスは…?」。そして翌日の早朝亡くなった。

 須賀は愛人と病棟に向かう父のうしろ姿を、間違いなく見送ったはずだ。

 須賀のイタリア人の夫、ペッピーノとの結婚生活はわずか6年。彼は若死にした。梯(かけはし)久美子は著書「世紀のラブレター」でペッピーノにあてた最初の手紙を紹介している。
 「私は小さく、誰でもない人間になりたい、たいしたことなく、大きなことを言わない人間に。(略)私にはそれが、自分が生きるためのたった一つのあり方のように思えるのです」。
梯は「その後の人生を、須賀はまさに、この言葉のとおりに生きようとした」と評した。

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